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遠野の市街地の東に、日枝神社がある小さな山が大日山。その山続きの北側にあるのが、欠ノ上稲荷神社。夜、市街地から、この山を眺めると1ヶ所だけ、灯があるところが境内となる。この神社へは、稲荷下の屋内ゲートボール場の北側から、石の鳥居をくぐって登るコースと、日枝神社から、北側へ通じる道路、遠野小学校そば児童館南側からのコースの3ヶ所を利用することになる。最短は、日枝神社コースで途中まで車でOK。
子供の頃、秋には学校帰りにアケビ採りをしたり、冬は稲荷下コースの七曲と称する坂道での「そりんこ」乗り(ソリ遊び)等をした場所でもある。うん十年ぶりに行って見ると当時に比べ、参拝客が少ないせいか、さみしい感じがした。
文禄年間(1592~1596)に、秀吉の奥州仕置により、各地に散った葛西氏の遺臣に欠下茂左衛門なるものがいた。氏は遠野阿曾沼に仕え、旧領石巻日和山から稲荷社を勧請し(現在地のより下に)、享保12年(1787)に現在地に移した。元々は、「欠ノ下稲荷」と呼ばれていたが、上に移したことで「欠ノ上稲荷」となった。山の北側にある早瀬川は、かつては、この山の縁を流れ、来内川と合流していたと言われ、その氾濫が原因で上に移したとのことだ。
この欠下氏は誰なのか?苗字から探ってみても、見当たらない。遠野のこの地へ来て、地名から欠下姓を名乗ったのではないか。現在、この神社周辺には、3軒の中田姓の方がおられ、ちょうど、この地を守っているような配置のされ方である。遠野に数件しかおられない中田氏と欠下氏の関係は如何に。
子供の頃、秋には学校帰りにアケビ採りをしたり、冬は稲荷下コースの七曲と称する坂道での「そりんこ」乗り(ソリ遊び)等をした場所でもある。うん十年ぶりに行って見ると当時に比べ、参拝客が少ないせいか、さみしい感じがした。
文禄年間(1592~1596)に、秀吉の奥州仕置により、各地に散った葛西氏の遺臣に欠下茂左衛門なるものがいた。氏は遠野阿曾沼に仕え、旧領石巻日和山から稲荷社を勧請し(現在地のより下に)、享保12年(1787)に現在地に移した。元々は、「欠ノ下稲荷」と呼ばれていたが、上に移したことで「欠ノ上稲荷」となった。山の北側にある早瀬川は、かつては、この山の縁を流れ、来内川と合流していたと言われ、その氾濫が原因で上に移したとのことだ。
この欠下氏は誰なのか?苗字から探ってみても、見当たらない。遠野のこの地へ来て、地名から欠下姓を名乗ったのではないか。現在、この神社周辺には、3軒の中田姓の方がおられ、ちょうど、この地を守っているような配置のされ方である。遠野に数件しかおられない中田氏と欠下氏の関係は如何に。
欠ノ上稲荷の名前が特異で由来が気になっていましたが、そういうことだったのですね。
早瀬川の川筋が現在と違う・・・・今度伺ったときに遠野警察付近を見る目が変わってきそうです。
上組町の人達は、その鳥居をくぐって七曲坂を上がってお参りしました。早瀬川の堤防を築いた後に田んぼができ、減反政策やら区画整理によって、今の稲荷下の住宅地があります。
私が小学校に入学前後に、母親が話していたことではっきり覚えていることがあります。上組町の何某という人が、朝、気がつくと体中、擦り傷だらけだったということです。あたりの人達は、きっと、欠ノ上のきつねに騙されて、一晩中、稲荷山を歩いていたんだと真顔で言っていました。
当地区の古老R吉の話。
欠ノ上稲荷より飯豊の大将洞稲荷が古いと言って居られました。
裏付けは聞いてませんが(口伝ですかねー。)
romiさんとこの大将洞稲荷のご神体も確か相当古いものですよね。あれは、何を祀っているんでしょう。(きつねの上の人物座像)