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平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

第60代 醍醐天皇

2008-07-12 10:34:12 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  885~930
☆在位期間 897~930
☆両親
 父・宇多天皇 母・藤原胤子(藤原高藤女)

☆略歴
 宇多天皇の第一皇子。名は初め維城と言い、後に敦仁と改めました。寛平五年(893)に皇太子に立てられ、その4年後に13歳で践祚しました。これは、先帝の宇多天皇が形の上では院政を執り行おうとして譲位したためです。以後、33年にわたって帝位についていたのですが、平安時代の天皇では最も在位期間が長い天皇となりました。

 醍醐天皇は最初、父の宇多天皇の訓戒に従い、藤原時平と菅原道真を重く用いました。そのため時平を左大臣に、道真を右大臣に任じて、親政の両翼として政務を推進させていました。

 しかし権門の時平は、寒門であるのに宇多上皇の強力な推挙で昇進した道真を苦々しく思い、延喜元年(901)正月、醍醐廃帝とこれに代わって女婿の斉世親王(醍醐の弟)を帝位につけようと企てたという讒訴により道真を大宰権帥に流してしまいます。その後の政界は、時平が天皇を支えるという形で主導権を撮り、種々の改革を行いました。時平が薨じたあとは、その弟忠平が廟堂を掌握して醍醐親政を支えました。

 醍醐天皇は生まれつき英明で、その治世は「延喜の治」と称されました。また、醍醐天皇の御代には文化事業が大変盛んでした。

・醍醐天皇御代に手がけられた文化事業
①『日本三代実録』 五十巻 国史編纂事業として時平らに命じて撰進させた六国史の最後を飾る史書
②『延喜格』十二巻、『延喜式』五十巻 時平・三善清行・紀長谷雄らが関わった格式の編纂。
③『古今和歌集』 紀貫之・友則らに命じて編纂させた日本最古の勅撰和歌集。

 天皇自ら和歌に優れ、『後撰』278以下の勅撰和歌集に四十首余りが収められています。その他『風土記』の再編修なども行いました。
 また、天皇は大変勉強家で、『漢書』『後漢書』を三善清行や紀長谷雄から学び、大江千古には『白氏文集』の教えを受けました。詩歌を物し、その作品も多く遺し、ほかに『醍醐天皇御記』という日記も遺しました。和漢の文化に通じたオールマイティーな天皇という印象を受けます。

 延長八年(930)秋、病を得て出家、8歳の皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位。九月二十九日に崩御しました。享年四十六。


☆父方の親族

祖父・光孝天皇 祖母・班子女王(仲野親王皇女)

主なおじ
 是忠親王・是貞親王・源 国紀

おもなおば
 為子内親王(醍醐天皇妃)・綏子内親王(陽成天皇妃)・繁子内親王(伊勢斎王)・源 和子(醍醐天皇女御)

主ないとこ
 興我王 源 宗于*百人一首28番目の歌の作者(以上、父は是忠親王)
 源 公忠*三十六歌仙の一人(父は源 国紀)


☆母方の親族

祖父・藤原高藤 祖母・宮道列子(宮道弥益女)

主なおじ
 藤原定方 藤原定国

主ないとこ
 藤原朝忠・藤原朝成・藤原朝頼・女(藤原兼輔室)・藤原能子・女(代明親王妃)・女(藤原師尹室)・女(藤原雅正室) 以上、父は藤原定方
 藤原和香子(父は藤原定国)

その他、こんな方も!
 母、藤原胤子のいとこ=藤原兼輔(紫式部の曾祖父)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
 ○敦実親王 ○敦慶親王 ○敦固親王 *斉中親王 *斉世親王 *斉邦親王 *行明親王

主な姉妹(○は同母姉妹、*は異母姉妹
 ○柔子内親王(伊勢斎王) *均子内親王(敦慶親王妃) *君子内親王(賀茂斎院)

主なおいとめい
 源 雅信・源 重信(父は敦実親王)
 中務(父は敦慶親王)
 源 庶明(父は斉世親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原穏子(藤原基経女) → 保明親王・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)・康子内親王(藤原師輔室)

 為子内親王(光孝天皇皇女) → 勧子内親王

 藤原能子(藤原定方女) *のちに敦慶親王、敦実親王、藤原実頼と通じる。

藤原和香子(藤原定国女)

 源 和子(光孝天皇皇女) → 常明親王・式明親王・有明親王・慶子内親王・韶子内親王・斉子内親王

 藤原桑子(藤原兼輔女) → 章明親王

 藤原淑姫(藤原菅根女) → 兼明親王(源 兼明)・源 時明・英子内親王(伊勢斎王)

 源 周子(源 唱女) → 源 高明・盛明親王・勤子内親王(藤原師輔室)・雅子内親王(伊勢斎王・藤原師輔室)

 藤原鮮子(藤原連永女) → 代明親王

 源 封子(源 旧鑑女) → 克明親王

 源 昇女 → 重明親王


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 醍醐天皇の皇太子にまず立てられたのは、第一皇子の保明親王でした。ところが保明親王は923年、父帝に先だって21歳の若さで世を去ってしまいます。そこで、保明親王の子、慶頼王が皇太孫に立てられるのですが、彼もまた、925年に5歳で亡くなりました。これらの不幸は、菅原道真の怨霊のせいだと噂されました。

 そのような中、次に皇太子に立ったのが保明親王の20歳年下の同母弟、寛明親王でした。彼は醍醐天皇の譲位後に朱雀天皇として践祚しました。朱雀天皇の次に帝位についたのは3歳年下の同母弟の成明親王、つまり村上天皇です。帝位はその後、この村上天皇の子孫によって受け継がれていきます。

・源 高明の子孫
 醍醐天皇の子孫たちには、臣籍に降下して源姓を賜った方がとても多いですが、男系の子孫が一番栄えたのは源高明の子孫だと思います。しかし私は、高明の子孫すべてを把握しているわけではないので、有名な方のみを紹介させていただきたいと思います。

 高明は源氏に降下して左大臣にまで昇進した人物ですが、969年に起こった安和の変で失脚し、太宰府に左遷されてしまいました。後に赦されて都に戻ってきたものの、失意のうちに世を去ります。

 そんな高明の子供たちには、源 俊賢(四納言の一人と称された有能な人物)、源 経房(道長に我が子のようにかわいがられました。)、源 明子(道長の室)、女子(為平親王妃)などがいました。

 このうち俊賢の系統が、有能な公卿を輩出して栄えていきます。有名な方としては、俊賢の子で「宇治大納言物語」を編集した隆国、隆国の子で閑院流の藤原公実の関白就任を阻止した俊明、確証はありませんが『鳥獣戯画』を描いたと伝えられている鳥羽僧正覚猷などがいます。

 一方、明子は藤原道長の室となり、頼宗、能信、顕信、長家、寛子(小一条院敦明親王妃)、尊子(村上源氏の源師房室)をもうけました。頼宗の子孫は中御門家、長家の子孫は御子左家となります。このように明子の血統は藤原氏や村上源氏にしっかりと受け継がれています。為平親王の妃となった女は、源頼定や恭子女王(伊勢斎王)、婉子女王(花山天皇女御・藤原実資室)などの母となりました。一見男系が目立っていますが、高明流の女系もしっかりと繁栄したのですよね。

・代明親王の子孫
 男系が繁栄した高明流に対し、女系が繁栄したのが代明親王の子孫ではないでしょうか。

 代明親王の子供たちには、臣籍に下って源姓を賜った重光、保光、延光、そして荘子女王、厳子女王、恵子女王がいます。このうち娘たちの血がそれぞれ、村上源氏や、藤原公任や行成の家につながっていきます。男系も思いがけないところとつながっていてなかなか面白いです。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」のページをご覧下さいませ。

・有明親王の子孫
 有明親王の子供たちには、臣籍に降下して源姓を賜った忠清、泰清、そして昭子女王、藤原公季の室となった女などがいます。

 このうち泰清は、四納言の一人、藤原行成の妻の父です。昭子女王は兼通との間に朝光をもうけました。藤原公季の室となった女は公季との間に実成をもうけ、彼女の血は閑院流藤原氏の子孫たちに受け継がれていくこととなります。

・雅子内親王の子孫
 雅子内親王は藤原師輔の室となり、高光、為光、尋禅、愛宮をもうけました。

 このうち高光の子孫については、当ブログの「藤原高光とその子孫たち」をご覧下さいませ。思いがけないところとつながっていて興味深いです。

 為光の子供たちには、誠信、斉信(四納言の一人)、公信、道信、(女氏)子(花山天皇女御)、中関白家事件と関わった三の君や四の君などがいます。

 愛宮は源 高明の室となり、経房や明子の母となりました。このうち明子の子孫に関しては本記事の源 高明の子孫の項をご覧下さいませ。

・康子内親王の子孫
 康子内親王は雅子内親王の没後、藤原師輔の室となり、師輔との間に深覚、公季をもうけます。つまり公季の子孫である閑院流藤原氏は、有明親王の女と共に、醍醐天皇の子孫の血が色濃く流れているのですよね。

・以下、その他の醍醐天皇の子孫のうち、有名な方や個性的な方を挙げておきます。

 源 博雅(克明親王の子) そうです、「陰陽師」に登場するあの博雅さんです。笛の名手として有名です。

 徽子女王(重明親王の女) 朱雀天皇御代の伊勢斎王。斎王退下後は村上天皇の女御となり、規子内親王をもうけました。規子内親王は後に円融天皇御代の伊勢斎王に卜定されるのですが、徽子女王はその際、娘に付き従って再び伊勢に下向しています。

 済子女王(章明親王の女) 花山天皇御代の伊勢斎王に卜定されますが、野宮にての滝口武士、平致光との密通が露見し、伊勢に行かずに斎王を退下しました。

 煕子女王(保明親王の女) 朱雀天皇の女御となり、昌子内親王(冷泉天皇皇后)をもうけました。

 この他、源姓を賜って左大臣にまで昇進しながら、藤原兼通の謀略によって二品の親王に戻されてしまった兼明親王と、彼の子、源 伊陟親子もなかなか面白いので、いつか人物伝で取り上げてみたいと思っています。

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第65代 花山天皇

2008-05-21 22:22:00 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  968~1008
☆在位期間 984~986

☆両親
 父・冷泉天皇 母・藤原懐子(藤原伊尹女)

☆略歴

 名は師貞。冷泉天皇の第一皇子として安和元年(968)に誕生しました。2歳の時に、父の冷泉天皇の退位、おじの円融天皇の即位により皇太子に立てられ、17歳で践祚します。

 しかし外戚の力が弱く(後見は母方のおじに当たる権中納言藤原義懐)、藤原兼家一家の陰謀により寛和二年(986)六月二十三日に内裏を抜け出し、花山寺にて出家、退位します。

 出家後は書写山へ参詣したり、叡山・熊野に長期間滞在修行し、正暦三年(992)ごろ帰京しました。東院に住み、以後は寛弘五年二月八日の崩御まで風流三昧の生活を送りました。

 花山天皇は芸術に優れた人物でした。東宮時代からしばしばその邸に近臣と歌合や歌会を催し、『拾遺』や『後十五番歌合』の撰者にも擬せられています。『花山院御集』もあったようですが散逸しました。現存する御製は一一八首。そのうち長歌一首、連歌二首。
 絵画にも巧みで、工芸・造園・建築のデザインにも優れていたそうです。このあたりは「大鏡」にも多くのエピソードがあります。陰謀により早々と退位させられてしまいましたが、その後は自分の好きなことや趣味に思いっきり才能を発揮したとも言えそうです。ある意味ではたくましく生きた人ですよね。
 また、冷泉上皇の御所の火事の際、いち早くかけつけるなど、父親思いだったというエピソードも伝えられています。


☆父方の親族

 祖父・村上天皇 祖母・藤原安子(藤原師輔女)

主なおじ
 円融天皇 広平親王 為平親王 具平親王 昭平親王など

主なおば
 選子内親王 規子内親王(円融朝の伊勢斎王) 盛子内親王(藤原顕光室)など

主ないとこ
 一条天皇(父は円融天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(後一条朝の伊勢斎王) (以上 父は具平親王)
 源頼定 源憲定 源顕定 恭子女王(一条朝の伊勢斎王)  婉子女王(花山天皇女御・藤原実資室) 女(具平親王室)(以上、父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(以上 母は盛子内親王
 昭平親王の女(藤原公任室)など


☆母方の親族

 祖父・藤原伊尹 祖母・恵子女王(代明親王女)

主なおじ
藤原親賢 藤原惟賢 藤原挙兼 藤原義孝 藤原義懐 藤原光昭

主なおば
 九の御方(為尊親王室) 女(藤原為光室)

主ないとこ
 藤原行成(父は藤原義孝)
 藤原成房 尋円 延円(父は藤原義懐)
 藤原道信 藤原公信(母は藤原為光室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *三条天皇 *為尊親王 *敦道親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *光子内親王 ○尊子内親王(円融天皇女御) ○宗子内親王

おいとめい
 敦明親王(小一条院)・敦儀親王・敦平親王・師明親王・当子内親王(三条朝の伊勢斎王)・子内親王・禎子内親王(後朱雀天皇皇后) (以上、父は三条天皇)
 永覚(父は敦道親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原(女氏)子(藤原為光女)

 婉子女王(為平親王皇女)*天皇の退位後、藤原実資の室となる。

 藤原姚子(藤原朝光女)

 藤原子(藤原頼忠女)

 平氏(中務乳母)(平 祐之女) → 清仁親王

平平子(平祐忠女・母は中務乳母) → 昭登親王

 四の君(藤原為光女)


☆末裔たち

 花山天皇の子孫からは天皇は出ていませんので、彼の皇子である昭登親王と清仁親王、そして清仁親王の子孫たちについて紹介します。

・昭登親王(998~1035) 母は平 平子
・清仁親王(?~1030) 母は中務乳母。

 実は昭登親王の母、平子は、清仁親王の母、中務乳母の娘に当たります。

 中務の呼び名で乳母として仕えていた母が、天皇の出家後に懐妊して清仁を生みました。また中務の娘平子も同じころ、皇子昭登を生んだため、清仁は母腹宮(おやばらのみや)と呼ばれ、昭登は女腹宮(むすめばらのみや)と呼ばれました。

 このように両皇子ともに天皇出家後の御子であったことから、寛弘元年(1004)に祖父冷泉院の擬子として五宮(昭登)、六宮(清仁)の処遇を与えられ、親王宣下されます。この親王宣下には、両親王の母の身分の低さを理由に、時の左大臣藤原道長が難色を示しましたが、花山天皇の強い希望によって実現したものだそうです。花山天皇が両皇子をいかに寵愛していたかがわかるような気がします。

 その後、昭登親王は最終的には四品中務卿となりました。清仁親王は四品弾正尹となりますが、長元年間(1028~37)の初めに出家しました。

・清仁親王の子孫たち
 清仁親王の子、延信王は万寿二年(1025)、源姓を賜って臣籍に降り、白川家を立て、永承元年(1046)に神祇伯(祭祀を司る神祇官の長官)に任じられました。これより、子孫代々この官に任ぜられて明治二年まで続きます。

 ただ延信の曾孫顕広王までは、他姓の者も神祇伯に任じられることがあったので、神祇伯が白川家の世襲となったのは顕広王・仲資王以降のことです。この顕広から神祇伯に任ぜられると「王」と称するようになったので、(王家)とも称されました。

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第63代 冷泉天皇

2008-04-18 10:32:04 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  950~1011
☆在位期間 967~969

☆両親
 父・村上天皇 母・藤原安子(藤原師輔女)

☆略歴

 名は憲平。天暦四年(950)五月、但馬守藤原遠規第にて、村上天皇の第二皇子として誕生しました。生後二ヶ月で親王宣下、間もなく皇太子に立てられます。外祖父師輔の力によるものと思われます

 実は、村上天皇にはすでに、第一皇子広平親王が誕生していました。そこで、広平親王の生母である更衣祐姫も、外祖父の中納言藤原元方(藤原南家)も、広平親王の立太子に期待していたのですが、憲平親王の立太子によってその望みが絶たれてしまいました。そのため元方は失意のうちに憤死、祐姫も康保四年(967)の村上天皇崩御に殉じて出家をしてしまいます。
 憲平親王は生まれつき身体が弱く、精神的に弱いところがあり、しばしば奇行なども見られたため、元方の怨霊のせいだとまことしやかに噂されました。

応和三年(963)元服。康保四年(967)五月践祚。六月には藤原実頼が関白に任ぜられたことにより、十余年行われてきた天皇親政に終止符が打たれます。十月、紫宸殿において即位します。しかし、安和二年(969)八月、譲位。わずか2年間の在位でした。

 退位した冷泉上皇は冷泉院を後院としますが、翌天禄元年(970)四月、冷泉院の焼亡により朱雀院に遷御。更にいつのころからか鴨院を御所としていましたが、長徳元年(995)正月の焼亡により東三条第に遷御。南院を御所とします。
 しかしここも寛弘三年(1006)十月に焼亡。この時、避難する際の車の中で神楽歌を歌っていたという記述が「大鏡」に載っています。同五年十二月、新造の東三条南院に遷御しますが、同八年十月、当院において崩御。享年六十二歳。何か、家事に明け暮れた不運な生涯ですよね。

陵は桜本陵。歌人としては『詞花』以下の勅撰集に四首入集し、家集『冷泉院御集』があったそうです。病気がちで奇行の多かった冷泉天皇ですが、歌を詠むことによって生き甲斐を見いだしていたのでしょうか。


☆父方の親族

祖父・醍醐天皇 祖母・藤原穏子(藤原基経女)

主なおじ
 朱雀天皇・克明親王・保明親王・重明親王・代明親王・有明親王・盛明親王・兼明親王(源 兼明)・源 高明

主なおば
 勤子内親王・雅子内親王・康子内親王・勧子内親王・英子内親王

主ないとこ
 昌子内親王(父は朱雀天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・熙子女王(父は保明親王)
 徽子女王(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王・厳子女王・敬子女王(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・藤原公季室(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・為平親王室・源 明子(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆母方の親族

祖父・藤原師輔 祖母・藤原盛子(藤原経邦女)

主なおじ
 藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原高光・藤原為光・尋禅・深覚・藤原公季・藤原遠度

主なおば
 藤原登子・三の君(源 高明室)・愛宮

主ないとこ
 藤原挙賢・藤原義孝・藤原義懐・藤原懐子(父は藤原伊尹)
 藤原顕光・藤原朝光・藤原正光・藤原(女皇)子(父は藤原兼通)
 藤原道隆・藤原道兼・藤原道長・藤原道綱・藤原超子・藤原詮子(父は藤原兼家)
 昭平親王室(父は藤原高光)
 藤原誠信・藤原斎信・藤原公信・藤原道信・藤原(女氏)子(父は藤原為光)
 藤原実成・藤原義子(父は藤原公季)
 源 俊賢・為平親王室(母は三の君)
 源 経房・源 明子(母は愛宮)


☆主な兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *広平親王 ○円融天皇 ○為平親王 *具平親王 *昭平親王

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *規子内親王 *楽子内親王○輔子内親王 *盛子内親王 ○選子内親王

主なおいとめい
 一条天皇(父は円融天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(以上 父は具平親王)
 源頼定・恭子女王(父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(母は盛子内親王
 藤原公任室(父は昭平親王)


☆后妃と皇子・皇女

 昌子内親王(朱雀天皇皇女)

 藤原超子(藤原兼家女) → 居貞親王(三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王

 藤原懐子(藤原伊尹女) → 師貞親王(花山天皇・尊子内親王・宗子内親王

 藤原付子(藤原師輔女) *付は実際は「付)に下心という字


☆末裔たち

 冷泉天皇の退位後は、同母弟の守平親王(円融天皇)が即位、円融退位後は冷泉天皇の第一皇子、師貞親王が花山天皇として即位しました。しかし花山天皇は、自分の孫である懐仁親王(円融天皇皇子)の1日も早い即位を画策する藤原兼家の謀略によってわずか2年で退位させられてしまいます。

 懐仁親王が一条天皇として即位する際、冷泉天皇第二皇子である居貞親王が皇太子に立てられました。しかし、25年待ってようやく三条天皇として即位した居貞親王ですが、自分の孫である敦成親王(一条天皇皇子)の一日も早い即位を熱望する藤原道長の嫌がらせによってわずか5年で退位を余儀なくされます。

 このように、天皇となった冷泉天皇の皇子たちは二人とも、藤原氏の圧迫によって退位させられた不運な天皇でした。

 一方、冷泉天皇の第四皇子、敦道親王は、歌人の和泉式部との間に男児を一人もうけます。彼は後に出家して永角と名乗りました。


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第62代 村上天皇

2008-03-22 10:07:14 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  926~967
☆在位期間 946~967
☆両親
 父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)

☆略歴

 名は成明。醍醐天皇の第十四皇子として延長四年(926)六月二日、内裏桂芳坊において誕生。同年十一月親王宣下されます。

 天慶三年(940)二月、綾綺殿において元服。即日三品に叙され、上野太守、大宰帥を経て、同七年、朱雀天皇の皇太弟となり同九年即位。即位当初、藤原忠平が前代に引き続き関白を務めましたが、天暦三年(949)忠平薨去後は関白を置かず、天皇親政を行いました。同年三月には、延喜十二年(912)以来行われなかった南殿(紫宸殿)における擬階奏を復活させています。親政が行われた醍醐天皇の治世とともに後世、「延喜天暦の治」とたたえられました。

 村上天皇は和漢の才に秀で、日記『村上天皇御記』、儀式書『清涼記』、家集『天暦御集』、詩集『天暦御製詩草』等を遺しました。政治面・文化面において優れた才能を持った天皇だったと言えそうですね。在位期間中には、有名な「天徳内裏歌合わせ」も行われています。

康保四年(967)五月二十五日、清涼殿において崩御。享年42歳。なお崩御直前に出家し、法名を覚貞といったそうです。山城国葛野郡田邑郷に葬られ、陵は村上陵で、現在京都市右京区鳴滝に所在しています。


☆父方の親族

祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)

主なおじ
 敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王

主なおば
 均子内親王 柔子内親王(斎宮)

主ないとこ
 中務(父は敦慶親王)
 源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
 源 庶明(父は斉世親王)


☆母方の親族

祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)

主なおじ
 藤原時平 藤原仲平 藤原忠平

主なおば
 藤原温子(宇多天皇中宮)

主ないとこ
 藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
 藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
 藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
 均子内親王(母は藤原温子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○朱雀天皇 *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王

主なおい・めい

 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王 熙子女王(父は保明親王)
 昌子内親王(冷泉天皇皇后)(父は朱雀天皇)
徽子女王(斎宮・村上天皇女御)(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原安子(藤原師輔女) → 憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王

 藤原述子(藤原実頼女)

 徽子女王(重明親王女) → 規子内親王(斎宮)

 荘子女王(代明親王女) → 具平親王 楽子内親王(斎宮)

 藤原芳子(藤原師尹女) → 昌平親王 永平親王

 源 計子(源 庶明女) → 盛子内親王(藤原顕光室)

 藤原祐姫(藤原元方女) → 広平親王

 藤原正妃(藤原在衡女) → 昭平親王

 藤原登子(藤原師輔女) *最初、重明親王の妃となり、親王の没後に入内し、「貞観殿尚侍と呼ばれた。


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 村上天皇崩御後、皇位は憲平親王(冷泉天皇)、さらに守平親王(円融天皇)へ受け継がれ、その後は冷泉・円融天皇の皇子たちが交互に天皇となりましたが(花山天皇・一条天皇三条天皇)、最終的には円融系の一条天皇の子孫たちが皇位を継承することとなります。


・為平親王の子孫
守平親王の兄でありながら、為平親王は天皇になることができませんでした。しかも舅であった源高明が安和二年(969)に安和の変で失脚し、親王も昇殿を止められ、再び昇殿が許されたのは安和の変の17年後でした。
 それでも彼は、高明女との間に頼定・憲定・顕定(いずれも源姓を賜って臣籍に降下)、婉子女王(花山天皇女御・後に藤原実資室)・恭子女王(斉宮)・女子(具平親王室)といった子女をもうけました。ただ、源氏に降下した息子たちの子孫はあまり繁栄しなかったようですが…。

 なお、憲定には、藤原頼通の室となって通房を生んだ女がいます。


・具平親王の子孫
 為平親王の子孫とは対照的に子孫が大きく繁栄したのは具平親王の系統です。

 具平親王には、前述の為平親王女との間に師房(源姓を賜って臣籍に降下)・隆姫女王(藤原頼通室)・女子(敦康親王妃)・(女専)子女王(斎宮)といった子女をもうけます。

 師房は藤原尊子(藤原道長女)との間に俊房・顕房をもうけ、このうち顕房の子孫がいくつもの系統に分かれ、多数の大臣や大納言・中納言を輩出して後世まで繁栄しました。

 なお、師房には、身分の低い雑仕女との間に頼成という息子がおり、彼は紫式部のいとこに当たる藤原伊祐の養子となりました。その頼成の女には、藤原頼通の室となって師実や後冷泉天皇中宮の寛子を生んだ祇子がいます。つまり、頼通の3人の室、隆姫女王・源憲定女・藤原祇子は3人とも、村上天皇の血を引く女性だったわけです。

・その他の子孫たち
 藤原正妃の生んだ昭平親王の系統は藤原公任一家につながっています(「藤原高光とその子孫たち」参照)。

 源計子の生んだ盛子内親王は藤原顕光の室となり、重家・元子(一条天皇女御)・延子(敦明親王妃)をもうけました。

このように、村上天皇の子孫は色々なところとつながっていて興味が尽きないです。


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第77代 後白河天皇

2008-02-18 09:44:18 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1127~1192
☆在位期間 1155~1158
☆両親
 父・鳥羽天皇 母・藤原璋子(藤原公実女)

☆略歴

 名は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子。

 久寿二年(1155)、異母弟近衛天皇の崩御によって践祚。

 保元三年(1158)、守仁親王に譲位、上皇となりました。これより中断期間はあったものの三十数年にわたって院政を執り行いました。建久三年(1192)三月十三日崩御、66歳。

 後白河天皇は鳥羽天皇の第四皇子であり、皇位からは遠い存在でした。本人も政治には関心がなく、今様や遊興に夢中になっており、鳥羽天皇からは「天皇の器ではない」と言われていたほどでした。

 しかし、美福門院の融子となっていた守仁親王が成長するまでの期間ということで臨時のような形で皇位についたとたん、政治に夢中になってしまったようです。
 政権を執った三十数年の間、信西入道、藤原信頼、平清盛、源義仲、源義経などを側近として用いました。そして、後白河の院政時代は貴族同士が争ったり、源平の合戦があったりなど、世の中が武士の世に移っていく激動の時代でもありました。彼は、これらの側近と時には妥協、時には対決しながら、、戦乱の世を生き抜いたと言えます。

 その一方、仏教に熱心で日々法華経を読み、熊野に34回御幸したり、蓮華王院を建立したりしています。芸能にも熱心で、御所に一般庶民を集めて芸能を楽しんだと言われています。さらに、自ら今様を集め「梁塵秘抄」を編集しました。


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎院 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎宮) 


☆母方の親族

祖父・藤原公実 祖母・藤原光子

おじ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成

おば
 女子(源有仁室) 女子(藤原経実室)

主ないとこ
 藤原公教(父は藤原実行)
 藤原公通(父は藤原通季)
 藤原公能・藤原幸子(藤原頼長室)・藤原育子(二条天皇中宮) (以上、父は藤原実能)
 藤原成子(高倉三位 以仁王・式子内親王などの母 父は藤原季成)
 藤原懿子(二条天皇母)・藤原経宗(以上、母は藤原経実室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○崇徳天皇 ○通仁親王 ○君仁親王 ○本仁親王(覚性法親王) *近衛天皇

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○統子内親王(上西門院) ○禧子内親王 *子内親王(八条院) *(女朱)子内親王(高松院) *妍子内親王(伊勢斎宮) *頌子内親王(賀茂斎院)

主なおい
 重仁親王(父は崇徳天皇)
 海恵(母は(女朱)子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原忻子(藤原公能女)

藤原子(藤原公教女) 

 平滋子(建春門院 平時信女)  → 憲仁親王(高倉天皇

 藤原懿子(藤原経実女) → 守仁親王(二条天皇)

 藤原成子(高倉三位 藤原季成女) →守覚法親王 以仁王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王(賀茂斎院)

 高階栄子(丹後局 法印澄雲女) → 観子内親王(宣陽門院)

 坊門局(大江信業女) → 静恵法親王


☆末裔たち

 後白河天皇のあとは、第一皇子の守仁親王が二条天皇として即位し、そのあとは二条天皇の皇子六条天皇が即位します。六条天皇の皇太子には、後白河天皇の皇子憲仁親王が立てられ、六条天皇の退位後、高倉天皇として即位します。こうして、皇位は高倉天皇の子孫によって受け継がれていきました。

 一方、後白河天皇が藤原成子との間にもうけた以仁王は親王宣下の機会を逃し、平家討伐に失敗して自刃してしまいましたが、多くの女性と通じ、異腹の宮を多数もうけました。そのうちの一人、長男の北陸宮を紹介いたします。

○北陸宮(1165~1230)
 以仁王の皇子。治承四年(1180)、以仁王の平家討伐計画が露見した後、父王の乳母に伴われて都を脱出、北陸に落ち延びます。幸い、平家討伐の兵を挙げた源義仲に拾われ、越中国にて潜伏することとなります。

 寿永二年(1183)、平家が安徳天皇を奉じて都落ちし、次の天皇を誰にするかを決める際、都入りした義仲に推されますが、後白河上皇の反対にあって位につくことができませんでした。

  文治元年(1185)十一月、帰洛して嵯峨野に居住しました。

 建久~正治の頃(1190~1201)、源姓を賜って臣籍に降下することをしきりに願い出ますが許可されませんでした。

 寛喜二年(1230)七月八日、赤痢のため死去、66歳。

 なお、以仁王の他の皇子たちのほとんどは、父王の平家討伐計画露見の直後に身を隠し、のちに出家をしたようです。

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第69代 後朱雀天皇

2007-10-16 15:14:44 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1009~1045
☆在位期間 1036~1045
父・一条天皇 母・藤原彰子(藤原道長女)

☆略歴
 名は敦良。一条天皇の第三皇子。

 寛仁二年(1017)、敦明親王の東宮辞退によって兄後一条天皇の東宮となり、長元九年(1036)、兄の後を受けて即位します。

 後朱雀天皇は英明な性格な上、兄に比べると厳格で、天皇の責を果たそうとつとめていたようです。しかし、おじに当たる関白頼通の権威が大きく、天皇の意のままにならないことが多々あり、苦悩も多かったようです。また、当時不穏であった天台僧徒とのことに関しても心をいためていたようです。

 後宮は、東宮時代の妃藤原嬉子(道長女)を始め、中宮藤原(女原)子(頼通養女)、皇后禎子内親王(三条天皇皇女)、藤原生子(教通女)、藤原延子(頼宗女)と華やかでしたが、外戚の思惑も強く、そこも天皇にとっては苦悩の種だったかもしれません。

 寛徳二年(1045)に37歳で崩御します。陵は現在の京都市右京区竜安寺朱山にある円乗寺陵。

 和歌にも優れ、『後拾遺』『新古今』『新千載集』等の勅撰歌集に作が見えるそうです。「自分は天皇の器ではないかもしれない」と苦悩するかたわら、和歌に楽しみを見いだしていたのかもしれませんね。


☆父方の親族

祖父・円融天皇 祖母・藤原詮子(藤原兼家女)

*後朱雀天皇の父である一条天皇には兄弟姉妹がいませんので、後朱雀天皇にはおじ・おば・いとこはいません。


☆母方の親族

祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)

おじ
 藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家

おば
 藤原妍子 藤原威子 藤原嬉子 藤原寛子 藤原尊子

主ないとこ
 藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
 藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
 藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
 藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)

 禎子内親王(母は藤原妍子
 章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子)
 後冷泉天皇(母は藤原嬉子)
 敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
 源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○後一条天皇 *敦康親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *脩子内親王 *(女美)子内親王

めい
 (女原)子女王(父は敦康親王 後に藤原頼通の養女となり藤原(女原)子と名乗る)
 章子内親王 馨子内親王(以上 父は後一条天皇)


☆后妃と子供たち

 藤原嬉子(藤原道長女) → 親仁親王(後冷泉天皇)

 禎子内親王(三条天皇皇女 陽明門院) → 尊仁親王(後三条天皇) 良子内親王 娟子内親王

 藤原(女原)子(敦康親王女 藤原頼通養女) → 祐子内親王 (示某)子内親王

 藤原生子(藤原教通女)

 藤原延子(藤原頼宗女) → 正子内親王


☆末裔たち

 後朱雀天皇のあとは第一皇子の親仁親王が即位、後冷泉天皇となります。頼通や教通は、藤原摂関家の血を引くこの天皇に何とか皇子を…と考え、それぞれ娘を入内させますが、皇子はついに生まれませんでした。そのため皇位は東宮であった後冷泉天皇の弟、尊仁親王が後三条天皇として即位したあとはこちらの系統に移っていきます。また、藤原摂関家を外戚としない後三条天皇の即位に伴い、摂関家の力も少しずつ衰えていくことになるのです。


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第64代 円融天皇

2007-09-07 09:57:34 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  959~991
☆在位期間 969~984

☆両親
 父・村上天皇 母・藤原安子(藤原師輔女)

☆略歴

 名は守平。村上天皇の第五皇子。

 天徳三年(959)十月、親王宣下。康保四年(967)、兄の為平親王を飛び越えて冷泉天皇の皇太弟となり、安和二年(969)に即位します。これは、源 高明の女を妃にしていた為平親王を警戒した藤原氏の外戚政策でした。三年後、十四歳で元服。おじ藤原兼通の女、(女皇)子が入内します。続いて頼忠女の殉子、兼家女の詮子も入内、これらはすべて、藤原氏の外戚政策のための入内でした。そのため天皇は周りに押し流されることが多かったようです。

 永観二年(984)、東宮師貞親王に譲位。その後、御願寺円融寺に入り出家します。正暦二年二月十二日崩御。円融寺北原に葬られました。

 人々の追慕深き人柄で和歌をたしなみ、御集や歌合わせも伝わっています。なお、「小右記」を表した藤原実資は、円融天皇の信任が厚かったそうです。


☆父方の親族

祖父・醍醐天皇 祖母・藤原穏子(藤原基経女)

おじ
 朱雀天皇・克明親王・保明親王・重明親王・代明親王・有明親王・盛明親王・兼明親王(源 兼明)・源 高明など

おば
 勤子内親王・雅子内親王・康子内親王・勧子内親王・英子内親王など

主ないとこ
 昌子内親王(父は朱雀天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・熙子女王(父は保明親王)
 徽子女王(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王・厳子女王・敬子女王(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・藤原公季室(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・為平親王室・源 明子(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆母方の親族

祖父・藤原師輔 祖母・藤原盛子(藤原経邦女)

おじ
 藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原高光・藤原為光・尋禅・深覚・藤原公季・藤原遠度など

おば
 藤原登子・三の君(源 高明室)・愛宮など

主ないとこ
 藤原挙賢・藤原義孝・藤原義懐・藤原懐子(父は藤原伊尹)
 藤原顕光・藤原朝光・藤原正光・藤原(女皇)子(父は藤原兼通)
 藤原道隆・藤原道兼・藤原道長・藤原道綱・藤原超子・藤原詮子(父は藤原兼家)
 昭平親王室(父は藤原高光)
 藤原誠信・藤原斎信・藤原公信・藤原道信・藤原(女氏)子(父は藤原為光)
 藤原実成・藤原義子(父は藤原公季)
 源 俊賢・為平親王室(母は三の君)
 源 経房・源 明子(母は愛宮)


☆兄弟姉妹・おいとめい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *広平親王 ○冷泉天皇 ○為平親王 *具平親王 *昭平親王など

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *規子内親王 *楽子内親王○輔子内親王 *盛子内親王 ○選子内親王など

主なおい
 花山天皇三条天皇・為尊親王・敦道親王(以上 父は冷泉天皇)
 源師房(父は具平親王)
 源頼定(父は為平親王
 藤原重家(母は盛子内親王)

主なめい
 尊子内親王((父は冷泉天皇)
 隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(以上 父は具平親王)
  恭子女王(父は源 頼定)
藤原元子(母は盛子内親王
 藤原公任室(父は昭平親王)


☆后妃と子供たち

 藤原詮子(藤原兼家女) → 懐仁親王(一条天皇

 藤原(女皇)子(藤原兼通女)

 藤原殉子(藤原頼忠女)

 尊子内親王(冷泉天皇皇女)


☆末裔たち

 円融天皇の子供は一条天皇ただ一人です。一条天皇の系統は、後一条天皇と後朱雀天皇が皇位につき、後朱雀天皇の子孫が天皇家を継承していきます。このように、円融天皇の血はしっかりと後世の天皇家に受け継がれていったのです。詳しくは、「一条天皇」のページの「末裔たち」の項をご覧下さいませ。


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第67代 三条天皇

2007-07-22 10:46:42 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  976~1017
☆在位期間 1011~1016
☆両親
 父・冷泉天皇 母・藤原超子(藤原兼家女)

☆略歴

 冷泉天皇の第二皇子。名は居貞。

 寛和二年(986)、11歳で立太子、25年にわたる長き春宮時代を経て、36歳で踐祚します。

 しかし、世は藤原道長の全盛期。自分の孫である春宮、敦成親王を一日も早く即位させたい道長は、三条天皇に対して何かと嫌がらせをします。三条天皇は、自分の娘妍子を中宮に立后させた道長に対し、糟糠の妃である(女成)子を皇后に立てるなどの抵抗を示しますが、眼病を患うなど次第に健康を損ね、長和五年(1016)正月に敦成親王(後一条天皇)に譲位しました。

 その翌年四月に出家、五月九日に崩御しました。


☆父方の親族

 祖父・村上天皇 祖母・藤原安子(藤原師輔女)

おじ
 円融天皇 広平親王 為平親王 具平親王 昭平親王など

おば
 選子内親王 規子内親王(円融朝の伊勢斎王) 盛子内親王(藤原顕光室)など

いとこ
 一条天皇(父は円融天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(後一条朝の伊勢斎王) (以上 父は具平親王)
 源頼定 恭子女王(一条朝の伊勢斎王) (以上、父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(以上 母は盛子内親王
 昭平親王の女(藤原公任室)など


☆母方の親族

祖父・藤原兼家 祖母・藤原時姫(藤原中正女)

おじ
 藤原道隆 藤原道兼 藤原道長 藤原道綱

おば
 藤原詮子 藤原綏子

いとこ
 藤原道頼 藤原伊周・藤原隆家・藤原定子(以上 父は藤原道隆)
 藤原兼隆・藤原尊子(以上 父は藤原道兼)
 藤原彰子・藤原頼通・藤原教通・藤原妍子 藤原頼宗 藤原能信(以上 父は藤原道長)
 一条天皇(母は藤原詮子)など


☆兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *花山天皇 ○為尊親王 ○敦道親王

☆姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *尊子内親王
 

おいとめい
 清仁親王(父は花山天皇)
 永覚(父は敦道親王 母は和泉式部)


☆后妃と子供たち

 中宮 藤原妍子(藤原道長女) → 禎子内親王(後朱雀天皇皇后 陽明門院)

皇后 藤原(女成)子(藤原済時女) → 敦明親王(小一条院)・敦儀親王・敦平親王・師明親王・当子内親王(三条朝の伊勢斎王)・子内親王

 藤原元子(藤原道隆女)

 藤原綏子(藤原兼家女)

 藤原盛子(藤原道長女)*「尊卑分脈には記載されているようですが、「御堂関白記」などの当時の記録には名前が見えず、実在が確かめられないそうです。実父は源師房という説があるようですが、師房の生年は1008年である上、三条天皇も1017年に崩御しているので、年代的に合わないような気がします。


☆末裔たち

 三条天皇の第一皇子である敦明親王は、後一条天皇の春宮に立てられますが、道長の圧迫などによって春宮を辞退し、その後は「小一条院」の称号を得て上皇待遇を受けました。彼には藤原顕光女の延子、藤原道長女の寛子、藤原頼宗女、源長経女など何人かの妃がいました。

 このうち、藤原頼宗女との間に源基平がおり、その子供が、後三条天皇女御で実仁親王と輔仁親王をもうけた源基子、「百人一首」66番目の歌「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」で知られる大僧正行尊がいます。

 なお、最初の妃、藤原顕光女の延子との間に敦貞親王がおり、その子供が右少将源宗家、神祇伯敦輔王(敦明親王の弟、敦平親王の養子)です。

 その敦平親王の実の娘に、後冷泉朝の伊勢斎王となった敬子女王がいます。

 また、三条天皇の子孫には、他にも伊勢斎王や賀茂斎院に卜定された皇女が多いです。

 嘉子内親王(敦明親王皇女) 後冷泉朝の伊勢斎王・上で紹介した敬子女王の前任。
 斉子女王(敦明親王皇女) 白河朝の賀茂斎院
 淳子女王(敦明親王孫 敦賢親王皇女) 白河朝の伊勢斎王

 一方、三条天皇が藤原妍子との間にもうけた禎子内親王は、長じて春宮時代の後朱雀天皇の後宮に入内し、その後皇后に立てられます。そして、後朱雀天皇との間に尊仁親王をもうけます。この尊仁親王が後の後三条天皇です。三条天皇の男系の子孫は帝位につくことはできませんでしたが、女系の子孫からはこうして天皇を出すことができました。


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第80代 高倉天皇

2007-05-11 12:22:59 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1161~1181
☆在位期間 1168~1180

☆両親
 父・後白河天皇 母・建春門院平滋子(平時信女)

☆略歴

 名は憲仁。仁安元年(1166)、6歳で立太子、二年後に八歳で踐祚します。平徳子を中宮とするなど平氏との関係が深く、岳父平清盛の専権と父後白河院の院政との間にあって傀儡的な存在だったようです。そのうえ、父と清盛との軋轢に悩み、治承四年(1180)二月、位を第一皇子、言仁親王(安徳天皇)に譲った直後、、厳島神社に御幸しています。この前年、後白河院は清盛のクーデターによって鳥羽殿に幽閉されていますので、「清盛の怒りを沈め、二人の仲を何とかしたい」という、高倉上皇の必死の想いが込められた御幸だったと思われます。

 高倉上皇はその年のうちに再度、厳島神社に御幸していますが、その頃から病におかされており、御幸の3ヶ月後、治承五年(1181)正月十四日、21歳という若さで崩御しました。誰からも愛される穏和な性格で、笛の名手であったとも伝えられています。


☆父方の親族

 祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)

主なおじ
 崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王

主なおば
 統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(八条院)

主ないとこ
 重仁親王(父は崇徳天皇)
 海恵(母は(女朱)子内親王

☆母方の親族

 祖父・平時信 祖母・藤原祐子

おじ
 平時忠 平親宗など

おば
 平時子(平清盛室) 女(平宗盛室)など

主ないとこ
 平宗盛 平知盛 平重衡 平徳子(以上 母は平時子)
 平清宗(母は平宗盛室)


☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *二条天皇 *守覚方親王 *以仁王

☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹) 
 *亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)

☆主なおい
 六条天皇(父は二条天皇)
 北陸宮(父は以仁王)
☆主なめい
 (イ善)子内親王(父は二条天皇)


☆后妃と子供たち

 平 徳子(平清盛の女 建礼門院) →言仁親王(安徳天皇)

 藤原殖子(藤原信隆女 七条院) → 守貞親王(後高倉院)・尊成親王(後鳥羽天皇)

 帥局(藤原公重女 高倉天皇乳母) → 功子内親王(伊勢斎王)

藤原頼定女 → 潔子内親王(伊勢斎王)

小督局(藤原成範女) →範子内親王(土御門天皇准母 坊門院)

平 範子(平義範女) → 惟明親王


☆末裔たち

 帝位はまず、高倉天皇の第一皇子言仁親王に譲られます。これが安徳天皇です。しかし、安徳天皇は8歳の時、壇ノ浦で入水自殺をしていますので子孫は残していません。

 これより先、安徳天皇が平家とともに都落ちした直後、後白河院は新しい天皇を立てます。これが高倉天皇の第四皇子尊成親王、つまり後鳥羽天皇です。帝位は後鳥羽天皇の皇子、土御門天皇、さらにその弟の順徳天皇、そして順徳天皇の皇子仲恭天皇へ受け継がれていきますが、後鳥羽上皇は承久三年(1221)に鎌倉幕府倒幕計画を結行します。これが承久の変ですが、上皇方は破れ、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流、仲恭天皇は退位させられます。

 そして、「後鳥羽上皇の血統からは天皇を出さない」という鎌倉幕府の方針により踐祚したのが、それまで日陰の存在であった高倉天皇の第二皇子、守貞親王の皇子茂仁王でした。茂仁王は後堀河天皇として位に就き、守貞親王は後高倉院として院政を執ることとなります。

 後堀河天皇のあとは、その皇子の四条天皇が即位しますが、四条天皇は皇子を残さず崩御したため、そのあとは土御門天皇の皇子、邦仁親王が後嵯峨天皇として踐祚しました。こうして、天皇家の血統は結局、後鳥羽天皇の子孫たちによって継承されていくこととなります。

☆守貞親王に関しては、こちらのページもご覧下さいませ。

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第66代 一条天皇

2007-05-04 09:08:34 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  980~1011
☆在位期間 986~1011

☆両親
 父・円融天皇 母・藤原詮子(藤原兼家女)

☆略歴

 名は懐仁(やすひと)親王。円融天皇の第一皇子として誕生しました。

 永観二年(984)、5歳で皇太子となり、寛和二年(986)、7歳で即位。正暦元年(990)、11歳で元服しました。

 性格は温厚で学才があり、、藤原道隆、藤原道長などとの融和を図ったため、中関白家が失脚した長徳の変の他は目立った政変もなく、在位期間中は政治的にも安定し、王朝文化の最盛期を迎えました。清少納言や紫式部が活躍したのもこの時代です。

 寛弘八年(1011)六月、病のため皇太子居貞親王に譲位、間もなく崩御しました。享年32。笛の名手としても知られています。


☆父方の親族

 祖父・村上天皇 祖母・藤原安子(藤原師輔女)

おじ
 広平親王 冷泉天皇 為平親王 具平親王 昭平親王など

おば
 選子内親王 規子内親王 盛子内親王(藤原顕光室)など

いとこ
 花山天皇・三条天皇・為尊親王・敦道親王・尊子内親王(以上 父は冷泉天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(以上 父は具平親王)
 源頼定 恭子女王(父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(以上 母は盛子内親王
 昭平親王の女(藤原公任室)など


☆母方の親族

祖父・藤原兼家 祖母・藤原時姫(藤原中正女)

おじ
 藤原道隆 藤原道兼 藤原道長 藤原道綱

おば
 藤原超子 藤原綏子

いとこ
 藤原道頼 藤原伊周・藤原隆家・藤原定子(以上 父は藤原道隆)
 藤原兼隆・藤原尊子(以上 父は藤原道兼)
 藤原彰子・藤原頼通・藤原教通・藤原妍子 藤原頼宗 藤原能信(以上 父は藤原道長)
 三条天皇・為尊親王・敦道親王(以上 母は藤原超子)など


☆后妃と子供たち

 藤原定子(藤原道隆女)→敦康親王・脩子内親王・(女美)子内親王

 藤原彰子(藤原道長女)→敦成親王(後一条天皇)・敦良親王(後朱雀天皇)

 藤原義子(藤原公季女)

 藤原元子(藤原顕光女)

 藤原尊子(藤原道兼女)


☆末裔たち

 天皇家の系譜は、一条天皇が彰子との間にもうけた後一条・後朱雀両天皇に受け継がれていきますが、子孫が続いていくのは弟の後朱雀天皇の系統です。
 帝位は後朱雀天皇の皇子の後冷泉天皇、さらにその弟の後三条天皇、さらに後三条天皇の皇子白河天皇へと継承され、今上天皇へとつながっています。

 一方、一条天皇が定子との間にもうけた敦康親王は、残念ながら帝位につくことが出来ませんでしたが、具平親王二女と結ばれて娘を一人もうけました。その娘は後に藤原頼通の養女となり、藤原(女原)子と名乗って後朱雀天皇の許に入内しました。二人はかなりうまく行ったらしく、(女原)子は天皇との間に二人の皇女、祐子内親王と(示某)子内親王をもうけています。
 しかし、(女原)子は、(女美)子を出産してすぐに崩御された祖母の定子と同じく、(示某)子内親王を出産後、間もなく崩御しています。祐子内親王・(示某)子内親王ともに一生未婚だったため、この系統はとだえてしまいました。

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