崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

強硬な日本の対北朝鮮政策

2006年10月16日 06時02分21秒 | エッセイ
 安保理が15対0で北朝鮮の核実験に反対する決議案が全員一致で通過した。日本はそれに積極的に賛成し、歩調をあわせて拉致対策を強硬に取っている。このような東アジアの緊張の中でも北朝鮮の市民たちは平穏であるという。ニュース統制というのが何であるかを痛感する。朴大統領の時、韓国もその状況であった。当時、私は外の世界のニュースが聞きたく工夫したことがあった。結局はその政権が朴大統領の暗殺と民主化などの大きな犠牲と困難な時代を経て、今のような自由な民主主義国家になったのである。北朝鮮の内部での変化に期待している。

朝鮮半島の南北は同族

2006年10月15日 08時03分45秒 | エッセイ
 北朝鮮の近隣の敵は日本しかないという時、朝鮮半島の南北は同族であるからと簡単に言う人が多い。しかし同族であるから敵対しないという自然な、当然に言われるということは間違いと思う。韓国と北朝鮮は韓国戦争によって悲惨な状況になり戦後長い間敵対関係にあった。まだ1千万離散家族がある。しかし金大中大統領によってある程度平和な関係を作ったのである。まったく政治家の外交によって出来たことである。いま日本との敵対関係もまったく政治的な関係によってなったものであり、政策や政権が変わればそれも一気に変わることが可能だ思う。

昨夜下関海峡メッセで講演

2006年10月14日 06時55分46秒 | エッセイ
 昨夜下関海峡メッセで「下関から朝鮮半島へ」という題で講演した。私の植民地研究は20年前、朝鮮半島巨文島から引き上げて山口下関に住んでいる人からその村へ送られてきた手紙を読んでからであった。その内容は終戦状況の中で預けて引き上げてきたその財産に対して権利を主張して賃貸費を要求したものである。その当時日本人の財産は敵産として払い下げられて韓国人の所有になっているので財産主張は無効であることは言うまでもない。その手紙を読んだ私は植民地研究を決心したのである。私は現在下関に住みながら引揚者たちと付き合って調査を続けている。植民地は絶対悪とはいっても引揚者たちは朝鮮半島を懐かしく思っている。それは純粋な愛の一種であろう。

竹島はどの国の領土

2006年10月13日 06時51分00秒 | エッセイ
 卒論で竹島はどこの国の領土であろうかという発表を聞いて意外なことを感じた。日本の学生から韓国の領土のようであると言われたからである。この論文は客観性を主張するものとして評価される。韓国や中国ではまだ自分の国のものではないような発表は絶対出来ないと思う。日本の力はここにある。客観性を主張することは場合によっては辛く、損することがあるし、非常に勇気の入る事でもある。しかし、広義ではプラスであることに間違いない。

ふぐの毒

2006年10月12日 06時14分35秒 | エッセイ
 今、井藤という学生の卒論「下関におけるふぐの観光商品化の研究」を指導している。ふぐに無知であり、また美味しさも知らない私にとってふぐは異様なものである。韓国でもふぐ料理は知っていたが一度だけ味わったに過ぎない。一般的には危険な食料とうイメージが強い。下関に来てそのような食品を観光化していることに不思議な印象をもった。しかし「美味しさと毒、毒と美味しさ」という面白さが効果的点でもあると思われる。人でたとえると長点と弱点を持つ、つまり個性の強い魅力とも言える。彼女の卒論に大いに期待している。

通信制大学院講義

2006年10月11日 06時16分08秒 | エッセイ
 ブロードバンドで視聴できる通信制大学院講義の10回目を録画した。今まで私が現地調査で直接撮った映像を多く使った。受講者特定者のために講義したものであるが、其の他の人が営業目的で使う可能性はある。そこで映画の映像を若干使ったということで担当者から著作権の話が出た。極端に言うと本を紹介することさえ出来ないという。しかし、特に私が専門としている文化人類学は人を観察、面接して研究するので肖像権などが問題視されると研究は難しい。学者は研究資料を自由に活用して人類に対する有効な研究成果を出そうとしている。このような営業目的ではない研究や講義は自由に出来るようになって欲しい。 

昨日の北朝鮮核実験

2006年10月10日 05時36分35秒 | エッセイ
 昨日北朝鮮が核実験をした。しかし韓国の人々はそれほど不安がってはいない。それは太陽政策という平和政策によるものである。そして北朝鮮は韓国を敵対視しない。その分日本が標的になっている。日本はいわゆる拉致問題で露骨的に北朝鮮を敵対する政策を強く行っており、感情的にも敵対されるようになった。それが大きい不安の要因になっている。北朝鮮の体制については誰もが悪いと思っている。世界の平和そして日本の平和のためによい政策はないのだろうか。積極的な外交が必要である。まずは拒むのではなく、互いに心を開いて、往来しながら接触すべきであろう。

引揚者調査

2006年10月09日 06時18分29秒 | エッセイ
 豊浦で韓国からの引揚者の家を訪ね調査を行った。有名な新聞の女性記者が同行した。彼女の熱心な取材ぶりをみて昔、韓国の東亜日報の女性記者の鄭氏を思い出す。当時鄭氏は済州島の海女の調査のために海女とともに海に潜って写真を撮って話題になった人であり、私の調査には時々同行した。彼女は人類学に関心をもってアメリカに留学して博士号を撮って韓国の大学教授になった。しかし教授になった彼女は調査はほとんどせず安楽学者の一人になってしまったようである。今日、同行した彼女はプロ意識を持ち、積極的で、明るく、熱心でとてもさわやかである。今のままで真実をきちんと伝え続け、長期間記者としてお仕事を続けることを願っている。否、たとえ、将来職種が変わったとしても、今の素敵な笑顔と、積極性、そして明るさとプロ意識は失わないでほしい。

総理の歴史認識について

2006年10月08日 09時37分25秒 | エッセイ
 安陪晋三総理の歴史認識について総理になる前と後の意見が違うと野党から問われている。別に安陪を支持するという立場ではないが、個人の信念を総理の権力で貫くより総理としていろいろな意見を聞いて自分の意見を合わせて変わったりするのは民主主義であろう。総理という立場と個人とは立場が違うし、合理的に意見をまとめていけばよいと思う。野党は出発時点においては協力的に話し合って、根本的な政策を生み出して欲しい。

北朝鮮を追い込める

2006年10月07日 07時30分23秒 | エッセイ
 国際社会が北朝鮮を追いつめている。今誰もがその鍵を中国が持っていると思う。なぜ日本がその鍵を持つ国にはならず、敵対しているだけであろうか。そもそも日本がその鍵を持つべきである。日本人妻が多く北朝鮮に行っているなど日本が積極的に外交をすべきであるのに、結局は敵対関係しか出来ていない現状である。日本の外交が上手くいかない問題はどこにあるのだろうか。潘氏が国連事務総長になったようにロビー活動をしながら弾力性を持って活動する人を見習って欲しい。たとえば鈴木議員のような弾力性を持ち、積極的な活動をする人の足を引っ張るような日本人の外交には期待できない。日本の政治家の外交を見ているとなんだかため息がでるばかりである。

中秋節

2006年10月06日 06時06分00秒 | エッセイ
 今日は韓国の秋夕である。突然訪ねてきた韓国人から秋夕祝いのプレゼントを貰い、秋夕を思い出した。日本ではその雰囲気はまったくない。伝統文化の中でお盆と秋夕の違いは大きい。植民地時代には禁じられていたが韓国人は秘密に祝ったという。特に新暦の正月を「倭正月」といい、「朝鮮の正月」として旧正月を強く守ってきた。韓国の慶祝日の中にクリスマスなどは西洋と通じるが、日本とのものはまったくないようである。ただ8月15日は同日ではあるが真っ向に意味が相反する。日韓文化の違いが著しく感ずるしだいである。

山口新聞に歌麿を報道

2006年10月05日 06時27分13秒 | エッセイ
 昨日の山口新聞に現在私が預かっている喜多川歌麿の朝鮮通信使絵が報道された。地方の新聞社から発信したほうがよいと思い、最初に情報を提供した。その反響として朝日新聞社、中国新聞社、西日本新聞社の取材を受けた。しかし本当に本物であるかと鑑定の話が出て緊張してボストン美術館所蔵の写真と対象作業をしてみた。とにかく専門の博物館に寄贈して鑑定や科学的保存処置をして欲しい。

韓国人の名前

2006年10月04日 06時41分58秒 | エッセイ
 早稲田大学出版部から『名前と社会』(新装版)が届いた。そこには「韓国人の名前に関する文化人類学的研究」の拙稿が載っている。今から十年ほど前私が国立歴史民俗博物館の兼任教授をしていた時、その博物館の研究会で発表したものである。私は母の名前がなかったことから、女性の名前がないのは呼ぶ必要性がなかったからであると主張した。この論文に新装版の編集者である森謙二氏は「ジェンダーが交差する問題として興味深い論点を提示している」とコメントしている。
 在日には本名があっても使っていない人が多い。使う必要がないからであろう。この論点から在日の名前の研究も必要である。
 


拉致問題

2006年10月03日 05時58分24秒 | エッセイ
 新内閣は拉致問題に強固な政策を採るという。生存者全員を帰さないと国交正常化はないと安陪総理は明言した。その政策とは別に、私はそれに関して憂いがある。それは日本では「強制連行」などの類の主張や北朝鮮からの反論があまり国民に届かないということと、それらについての他の意見などが出てこないからである。これについては世論の一致か反論が出来ない社会的な雰囲気があると思われる。それが戦争に繋がった歴史がある。もっと多様な議論が望ましい。

タブーと倫理

2006年10月02日 22時05分00秒 | エッセイ
 日本では天皇制や靖国などに対しては言論の自由がないような、いわばタブー的な面があるようである。クリントン大統領がクーロン研究を中止した、つまり生命倫理がある。前者は宗教的タブーであり、後者は宗教を背景にした倫理である。臓器移植を見ても日本では死者からの提供が少ないという。つまりそれも死体尊重のタブーであり生命を尊重する倫理ではないように思われる。