崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「現代のベートーベン」

2014年02月07日 05時29分39秒 | エッセイ
 「現代のベートーベン」といわれた佐村河内守氏の実際の作曲家は他の人であったというニュースを聞きながら変なことを考えた。こんなことがどうして起こったのか、またあってはならないことだが、日本人は音楽観賞力や読書力が本当にあるのだろうか。数年前イギリスに滞在中テレビをつけたら音楽のクイズ番組が進行中であった。視聴者がクラシックの演奏を指揮する音楽から間違えたところを見つけるものであった。私のクラシックの観賞力からはレベルが高すぎであった。ここで話題になっているゴーストライターが作曲した交響曲をきちんと観賞する能力があったのか質問したい。多くのファンとはただ「広島物語り」を賛美したのであろうか。「被爆地の広島」「聴力を失った人」「髪型がベートーベンに似ている」などの面白さで音楽を観賞したのではないか。それこそ偽りの態度である。名前や職位を見て作品を手にとって見ることはあっても「作品を作品」として読むなり聞くことが大事である。「嘘」と騒ぐ人の声を聞きながら彼ら自身の態度も気になる。音楽鑑賞にしても、人生の生きかたにしても偽りはないだろうか、世俗社会をどう見るべきであろうか、自分自身に自問する。
 マスメディアが嘘をつかないように倫理を強調するのを聞くと苦笑を禁じ得ない。ある受賞感想を丁寧に感謝する人にカメラを向けず、むしろ「生意気な発言」で有名になった人もいる。言論が時々言っている「第一人者」という人物が学会などでは実力が認められない人もおられる。「現代のベートーベン」に賞賛・賛美して失望する人々に聞きたい。本当に曲に魅了されたのか。自ら考えてほしい。ここでは嘘の話はさておき、日本人の芸術観賞力を問題にして考えている。一般的に文学作品が読まれ、評価されて作家が有名になるのが正道であり、そして名作が生まれるのである。ベストセラーが生まれ、ノーベル文学賞を受賞する人もいる。その賞さえ信じられない。世の中には珠玉のような文章を残しても評価されず眠っているものが多い。作品自体が読まれ、評価される社会になってほしい。私がアメリカで最初の研究会に参加して感じたのは無名の研究者の発言でも内容によって注目されることであった。治安が悪くてもアメリカが好きになったのはそれからである。日本は確かに先進国ではあるが、先進的な教養がある社会とは思えない。

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5 コメント

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Unknown (崔吉城)
2014-02-07 07:20:44
 今朝もこの文を書いた後毎日新聞を開いたら一面トップ記事となっていることが分かった。このようなことはしばしばある。昨日の下関版に平川記者が炭焼きについて報道したのは以前多くの記者に発信しても記事になることはなかったものである。目線を共有することが嬉しく、早速彼に励ましの電話を入れた。
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Unknown (黒羊)
2014-02-07 23:22:41
作品を作品として評価すべし、と言うのは、「自閉症児が描きました」や「難病を乗り越えて」と言ったサブタイトルをつけた作品発表の場を否定されておられるのですか?
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Unknown (崔吉城)
2014-02-08 07:22:04
 根本的な問題のご指摘です。英雄伝や障害者など人物中心のことであればそれは人中心にしてもかまわないです。しかしクラシック音楽や純粋芸術文学であれば「作品は作品」だけでしょう。たとえば総理大臣が現職中書いた内容が肩書なしで文としてどのくらい力を持っているでしょうか。世の中には拙作が名作、名作が拙作になっているものが多いでしょう。
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Unknown (黒羊)
2014-02-10 02:22:43
毎日新聞をご購読のようですので、7日のたまてばこと言うコラムもご覧になられたと思います。コラムのサブタイトルは「障害ではなく絵を見て」。
教授はこのコラムにて紹介されている姫野暁さんを人物で評価しますか?作品で評価しますか?

そもそも人物で見るか作品で見るかの一線を引く事自体が、何やらおかしな事だと私は思います。
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Unknown (崔吉城)
2014-02-11 13:03:35
民謡や民画など一定なあるいは特定な作家がないものを価値はどうであろうか。作家と作品の関係はどうすべきか、考えなければならない。

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