崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

人見知り

2013年09月02日 05時15分13秒 | エッセイ
最近教会に出席するようになった韓国人の中年夫婦と同席した。夫は韓国からの派遣会社の責任者である。婦人がインドに奉仕に行って来たという話をしているので一人で聞くよりは全員に話をしてくれないかと私は即席スピーチを注文した。彼女は快諾し、私が立ちあがり彼女を紹介し、そのスピーチは家内の通訳で始まった。夫婦は韓国ソウルのオンヌリ教会の信者としてNGOのコンペンションメンバーとして南米やアフリカ、東南アジアの貧困な人々を経済的に支援しながら宣教活動をしており、その一環として先週、インドの南部に宣教活動をしてきたという。突然、演説会のような雰囲気になった。このような即席の発案と実行は日本社会では珍しい。一般的にこのような小さいことも打ち合わせ会を経て準備をし、行なうのが常である。教会では礼拝に出席しても他の人と顔も会わせず避けるように帰って行く人もいる。
 私の長い日本での生活から日本人と韓国人の大きい差の一つは日本人の「人見知り」である。それは韓国語では「顔を知る」(낯을 가리다)という幼児の現象である。大体母親がそんな傾向がある人の幼児が対人恐怖症的である。「人見知り」は幼児の幼稚な症状であり、ほとんどは直る。私は日本人の多くがこの幼児の時の心理現象が直らず対人恐怖症的な心理現象がそのまま固まっているように感ずる。それはあがり症とも称される一種の未熟さであろう。日本ではこのような人が多く、それなりに互いに理解され、「おとなしい」国民性のようになっている。一般的にどの社会でも他人の前での失敗経験などをきっかけに、このような人前での症状が出ることがあり、特に思春期にはよく見られるが、日本では極度に緊張感がある。それが「恥の文化」とも言われるようになった。それは文化だと正当化してはいけない。ある職業のリーダーはその所為で仕事が効果的に成し遂げられていない。日本の子供教室を観察すると幼児や子供はむしろ人見知りはあまり感じないが、どんどん進級することによって対人恐怖症的な現象が増える。これは日本の教育態度や社会的な規制の多い国家的な支障からであろうと私は考える。日本の学校教育は行われても広い意味での教育「社会化」が不十分であることを意味する。
 失礼な言葉になるかもしれないが、我が愛犬のミミは良いモデルになるかもしれない。ミミは人が好き、誰にでも撫でられるのが大好き、人見知りや対人恐怖症はない、明朗で社会的である。ミミのその性格は愛犬センターで長い期間売れず多くの人の目にさらされ、時には抱かれたことが多かった生長期間があったからであるといえる。

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