關釜 連絡船, あるいは文化的拡散の出発点(抜粋)
戰前に京都で留学した父が初めて日本の土を踏んだこの下関にきて、また韓国東亜大学校の総長として同じ名前の日本東亜大学で講演をすることができ、 感無量です。’東亜’という言葉は戰前に日本の膨張主義者によりかえられましたが元々東アジア人たちの団結と協力をとなえた意味のある用語です。私は今日、釜山、下関間路線により近代東北アジアの文化的交流を歴史的に考えてみたいと思います。
韓国現代史で最も重要な人物の一人である朴正熙元大統領は、1942年に日本陸軍士官学校本科に進学するために釜山で下関行きの船に乗った。日本行き移住者たちは、知識階層だけではなかった。多数の貧困層もむやみに日本に向かった。その結果、解放当時の日本内の朝鮮人人口が約2百萬に達した。日本の労働市場を保護するために渡航證のある朝鮮人だけが下関行きフェリーに乗ることができた。1930年代に渡航証を所持できず、日本に行こうとした朝鮮人たちの約60%が出身地域や釜山で阻止された。その結果、長い間渡航証の偽造が朝鮮南部に存続した。下関と釜山税関は朝鮮と日本、双方の脱走者や不法人事を取り締まる境界であった。日本で事故や問題をおこし、朝鮮に逃げようとした日本人もこの二つの港で簡単に捕まえられた。關釜フェリーは挫折した恋人たちが極端な選択をしていた手段でもあった。「死の讚美」という歌で有名な朝鮮最高の歌手、尹心悳(ユン・シンドック)と彼女の既婚男性の恋人キム・ウジンは、1926年関釜連絡船德壽丸(ドクジュマル)に乗って釜山にいく途中、玄海灘(ゲンカイナダ))に身を投げた。その情死は当時一大事件だった。・・・・・・