研究室の蛍光灯の一組が一昨日切れ、昨日またもう一組が切れて消えた。数年前の商品であり、期限が同じのもののようである。期限があるとは知っていてもこのように一日の差しかない寿命であることが不思議な気がした。LEDなどは長持ち、つまり寿命が伸びたと宣伝されている。その数万時間という寿命のものもがほぼ同じ日に消えるだろう。電球の寿命が延びるだけではなく、人の寿命も延びて高齢化している。しかし人の寿命は機械的に一律ではない。そこに人の未来への希望が潜んでいる。
人にもそれぞれ決まった寿命があり、生まれて死ぬ。宿命的な運命論者たちは人の貴賎、幸不幸や成功と失敗も決まっているという。そしてただ命の期間だけではなく、成し遂げる努力の限界や幸・不幸まで決まっているように信ずる人も多い。大きく考えると人間という条件では限界があるという認識ともいえる。死が決まっている死刑囚の場合、不幸な運命を受け入れやすく、諦めることができるなら多少の慰めになるのだろうか。また死を覚悟しなければならない戦場に出る兵士のように今では事件、事故も多く死を身近に感じ、心の準備をすべきかも知れない。
命を無限に延長しようとするのが現代人の生命観である。「不老草」を探して永世しようとする道教や、永世を生きるというキリスト教の信仰が蔓延している。人は寿命が機械的に決まっていないということで明日への希望を持てるのである。
写真は呉埰鉉氏彫刻(タイムカプセル博物館)
人にもそれぞれ決まった寿命があり、生まれて死ぬ。宿命的な運命論者たちは人の貴賎、幸不幸や成功と失敗も決まっているという。そしてただ命の期間だけではなく、成し遂げる努力の限界や幸・不幸まで決まっているように信ずる人も多い。大きく考えると人間という条件では限界があるという認識ともいえる。死が決まっている死刑囚の場合、不幸な運命を受け入れやすく、諦めることができるなら多少の慰めになるのだろうか。また死を覚悟しなければならない戦場に出る兵士のように今では事件、事故も多く死を身近に感じ、心の準備をすべきかも知れない。
命を無限に延長しようとするのが現代人の生命観である。「不老草」を探して永世しようとする道教や、永世を生きるというキリスト教の信仰が蔓延している。人は寿命が機械的に決まっていないということで明日への希望を持てるのである。
写真は呉埰鉉氏彫刻(タイムカプセル博物館)