崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

堀研氏の個人展へ

2014年05月07日 05時09分26秒 | エッセイ
 桜の花見前線はまだ北部に残っているが、ここ西南地方にはすでにシャクナゲ、サツキ、藤などに代わり新緑になっている。でも桜の花見の余勢はまだ残っている。昨日は家内と大きい桜の木の下で太い幹の力と花の美しさを満喫した。下関美術館での堀研氏の退任個人展を鑑賞した。数多くの大作の桜の木に圧倒される。遠くまで発散する花の美力、その花の羽根の下で「見てくれ」と誘われるような現場感が強く伝わった。小さな作品の絵をみると自分でも絵書きに挑戦してみたい心はあるが、これら大作の前ではただ圧倒されるだけである。厳しい自然の中で生きる木の力は幹であると強く感ずる。花鑑賞も加齢に連れて変わっていくようである。花弁に魅了され唇を寄せてキスをしたくなるような若者、そして枝も目に入るのは中年、さらに老熟すると根と幹と、芽生え、開花、花弁、落花とまで見てくる。堀研氏は力強く生きる樹木の美しさや人生を描いている。
 展示室では彼の奥さまが受け付けをされておられ、夫婦合作の展示会のように感ずる。私たちは自然に堀氏を囲んで輪を作っていた。堀氏の紹介で会った山口県の硯工芸の山口県指定無形文化財赤間硯保持者の堀尾信夫氏と、偶然にも東亜大学の学長の櫛田宏治氏とそのお嬢さんが来られていた。一列に並んで大作を背景に写真を撮り、輪を作り立ち話をした。花から世俗へ、絵から人生へと話題を変えながら楽しんだ。花は桜だけではない。草花、野バラ、ボタン、薔薇、千里香、紅葉、そして梅、桜にと永遠と繰り返される。そんな中で、登場人物は少しずつ変わっていく。(写真左から櫛田、堀、堀尾、私)