崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

朝鮮学校で公開授業

2013年11月18日 05時14分24秒 | エッセイ
 昨朝下関の朝鮮学校で公開授業に参観した。運動場には車30余台が駐車。地域住民や支援者たちが訪れ、児童・生徒42人の授業を参観した。新しく校長になった呉栄哲先生が迎えてくれた。いわば正規(一条)学校ではない各種学校として、日本政府から支援金を受けられない民族教育機関であり、朝鮮人として生きていける象徴的な学校である。この学校は総合的には日本の正規教育の枠の6.3.3に沿った教科課程が設けられている。
 私は参観して日本の中での民族教育の意味、学習用語としての朝鮮語・韓国語の事情、日本語と日本文化への教育などに注目した。教室内前面にあった金日成などの肖像画写真はなかった。授業はすべて黒板に白墨で板書して行われた。プロジェクトなどの器機は一切使われなかった。中学2年生の「社会」明治維新の成立について授業が行われた。日本史そのままを説明しながら板書して、生徒は一方的に受身的な授業であった。小学校の「音楽」では先生がピアノを引きながら音を楽譜に書く、私が受けた教育方法とは違った、良い授業だと思った。
 子供は親によって不平等にならないようにという思想が流行っても国家や民族が子供に教育、言語(国語、民族語)を選択しているということは不平等ではなかろうか。なぜこの子供たちは朝鮮学校で、朝鮮の「民族教育」を受けなければならないのか。それが日本語と朝鮮語のバイリンガルあるいは多言語の国際化であろうか、日本の中の孤立した閉鎖的な民族集団作りであろうかなど考えさせられてた。学父兄、総連、日本政府が深刻に考えて政策を立てるべきである。私は多文化、多民族教育、あるいは同化教育など、基本的な問題を考えながら歩いて教会へ着き、秋収感謝節の礼拝に参加した。昼食は盛大な韓定食のように餅、ジャプチェなどの韓国料理を楽しんだ。同席の張竜傑教授の紹介、私から萩の在日1世の90歳の女性の一生記の本を紹介しり楽しい時間を過ごした。