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一日一句(968)







酔ひざめや新玉葱の朝の皿






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西行全歌集ノート(26)




吉野山ほきぢ伝ひに尋ね入て花見し春はひと昔かも

西行 山家集 上 春

※ 「ほきぢ」は、崖路のこと。前書きに「山寺の花盛りなりけるに、昔を思出て」とある。眼の前の山寺の櫻を観て昔、崖路を苦労して登って観た吉野の櫻を思い出している。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す櫻かな」もそうだが、櫻は過去を回想させる花、なにか、懐かしさを憶えさせる花、なのかもしれない(花吹雪など、まさに、死んだ人が、その中を帰って来るような気がすることがあるが)。たとえば、梅には、そういう感じはない。


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西行全歌集ノート(25)




分きて見ん老木は花もあはれなりいま幾度か春に逢うべき

西行 山家集 上 春

※ 前書きが「古木の櫻のところどころ咲きたるを見て」。この歌の感覚は、よく理解できるように思う。櫻の古木を人と同じように感受している。古木と一体化して、老いた自分もあと何回春に巡り合うのか、と思うからこその「あはれなり」なのだろう。ここには、自分の外の対象と自分との距離がほとんどない。「客観」や「対象」という感覚はないと思う。たとえば、こういう感覚が一般的であったとして、コンビニを作るから、ブルトーザーで、古木を根こそぎにする(どこか、大量殺戮の戦争に通じる)、ということはありえないだろうと思う。社会が、明らかに質的に変わっている。


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一日一句(967)







雪道に慣れぬ身体の痛みかな






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西行全歌集ノート(24)




思ひ出に何をかせましこの春の花待ちつけぬわが身なりせば

西行 山家集 上 春

※ 「思ひ出に」は、この世の思い出に。この世の思い出になにをしようか、花を待っても逢えない身の上ならば。熱狂的で狂信的な熱情を感じる。西行の花への取り憑き方は、少し怖くなるような処がある。前書きに「老花を見ると云う事を」とあって、死を強く意識していることがわかる。花は、西行の激しい心の飢えを満たしているようにも思われ、大きな喪失感が背後にあるようにも感じられてくる。よく言われる身分の高い女院への失恋なのか、吉本隆明が言うような過度の自意識なのか。一連の花を激しく希求する歌を読んでいると、この世への絶望なのではないか、とふと思ったりもするのである。


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一日一句(966)







仰ぎ見るヴァレンティヌスの夜の雪






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一日一句(965)







the lost homeヴァレンティヌスの夜は更けて






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西行全歌集ノート(23)




おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらすべき

西行 山家集 上 春

※ 「おのづから」は、万一、ひょっとして。普通は、素直に、娯楽がない時代だったんだなとか、よほど、櫻マニアなんだなとか、西行に感情移入して、思うんだろうけど、どうにも、イラつくのは、前書きに「春は花を友と云う事を、清和院の斎院にて人々よみける」とあるから。これは、宮廷の人たちの当時の娯楽だった花見に関わる記録として読める。つまり、ここには、ミメーシスはあるけれど、「他者(階級の他者)」が、決定的に欠如している。そして、その「他者の欠如」は、虚子などを経由して延々と現代の俳句や短歌にまで及んでいるように感じられてくるからなのである。


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一日一句(964)







いにしへの悪党どもが花見かな






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一日一句(963)







春の雪少女にはかに華やいで






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