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西行全歌集ノート(13)




1月25日

花見ればそのいはれとはなけれども心の内ぞ苦しけりける

西行 山家集 上 春

※ 「いはれ」は、理由のこと。これも、凄い歌である。花がいとしい人そのものの感じがする。いや、人間存在を超えている。「心の内」が苦しいというのは、花に圧倒されて、心が花になりきれない苦しさのようにも思える。満開の花が恐ろしいのは、そんな気分も、どこかに、あるのではなかろうか。


1月25日

白川の梢を見てぞなぐさむる吉野の山に通ふ心を

西行 山家集 上 春

※ この「心」も身体を抜け出して、吉野山へ行ってしまう。吉野の花のことを思うと、居ても立っても居られない。そんな心を目の前の白川の花の梢を見ることで、なぐさめているというのだが、西行にとって、花とは、どの花でも良かったわけではなく、み吉野の花だったことがよくわかる歌。吉野山全体が花の聖地だったのだろう。


1月25日

白川の春の梢の鶯は花の言葉を聞く心地する

西行 山家集 上 春

※ この歌には注目したい。心は、花の言葉を鶯が聞いていると想像している。やはり、花は言葉を持っている。鶯にもわかる言葉を。


1月25日

ひきかへて花見る春は夜はなく月見る秋は昼なからなん

西行 山家集 上 春

※ 確か、西行は大きな荘園を持っていて、経済的には困っていなかった。その余裕が、そうさせているとは言え、この狂い方は尋常ではない。西行は、宗教者・芸術家であるが、社会的実践モデルとしての労働に定位して、宗教活動・芸術活動を理解することもできるはずである。宗教活動は、高野山の意向を汲んで、いろいろ、活動していたので、目的定立・実現(ロゴス、パイゴス)といった観点で、了解できるが、偶然的要素が大きい、芸術活動はどうか。自然を模倣する(ミメーシス)という観点から、理解することができる。労働は、自然と人間の物質代謝であるが、人間が自然に関わる原初的な仕方は、まずは、模倣だったはずである。花になる。月になる。西行の心の狂い方には、労働の谺がある。






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一日一句(947)







み吉野の空は大きく花ごころ






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西行全歌集ノート(12)




1月25日

あくがるゝ心はさてもやまざくら散りなんのちや身に帰るべき

西行 山家集 上 春

※ この歌もいろいろ、考えさせられる。最初の言葉「あくがる」は、「心が身体から抜け出てゆく」ことである。あくがるは、漢字で書けば、憧がる。あの、なにかに憧れると基本的には同じである。つまり、対象に憧れるというのは、心が身体を抜け出て対象と一体化することを言うわけである。身体の側にポイントを置けば、うわの空になるわけだが、心の側にポイントを置けば、対象と一体化し、そのとき、対象の「理念化」が行われる。この点に注目したい。心が花に「あくがれれば」花は理念性を帯びる。心が、原発に「あくがれれば」は、原子力エネルギーは理念性を帯びる。非常に美しく高効率エネルギーの側面だけが現れる。原子力エネルギー構造の持つ対立や矛盾は、理念性を帯びると、不可視の存在しないものとなる。

花見という習慣が、ごく若いころから嫌いだった。今も嫌いである。花見は、数えるほどしか行ったことがない。花は一人で見れば十分。ずっとそう思っている。花見は、共同体を統合しないと都合の悪い人間が始めて広めたものか、もともとの死者の魂を静める習慣を、そのように利用してきたものだろう。靖国を見てみればいい。ものの見事に共同体内部の対立も矛盾も、英霊の前で存在しないかのようではないか。

心が身体を抜け出る運動は、対象への一体化(憑依)と関わるだけでなく、対象の理念化とも深く関わっている。心は、西行が歌で表現したように、言葉の働きと切り離せないし、言語に、そもそも、理念性を付与するという特徴があることに、注目したい。心の運動は、基本的には、倫理の彼岸にあると考えた方がいいように思う、好きなってはいけない人を好きになる。悪に憧れる。問題は、個人的な心の運動が、大規模な社会性を帯びるときだろう。



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一日一句(946)







真心や西行花になり給ふ






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西行全歌集ノート(11)




1月24日

吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき

西行 山家集 上 春

※ これを読んだとき「これだ!」と電車の中で小さく叫んでいた。ここに心の最大の特徴が出ているではないかと思った。「梢の花」だから、満開の櫻ではなく、初花に近い枝先の一輪だろう。その初花を見た日から、心が身体を離れてしまった、というのである。離れた心は、どこへ行ったか、「梢の花」へ行ったのである。満開の桜が待ち遠しくて、居ても立ってもいられず、心は、身体を離れてしまった。花に取り憑かれたのである。逆に言えば、心の中に、花が入りこんできて占有してしまったのである。

ロボット化した人々に「心」がないわけではない。アイヒマンを見てみればいい。モサドは、アイヒマンを確認して拉致するのに、アイヒマンが妻の誕生日に花を買ったのを決定的な証拠としている。アイヒマンに心がないわけではない。虚子を見てみればいい。俳句を詠みながら、その俳句は、決定的に「他者」が欠落している。心が共同体内部の存在で占有されているからである。経産省のお役人が短歌を詠む。大いにあり得る。その一方で、原発再稼働を粛々と進める。心がないからではなく、心が一つのことに取り憑かれているからだ。

花狂い、という言葉がある。心は、身体を離れやすく、また、何物かを身体に呼び込みやすい。

心の最大の秘密は、身体を離れて、外部の存在に取り憑き、同化することであり、外部の存在から見れば、身体へと呼び込まれることである。古代の感性、ミメーシスがここにはっきりと姿を現している。ミメーシスこそ、心の最大の秘密と関わっている。梢の初花に取り憑かれた西行。そのとき、西行は一輪の花なのである。



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一日一句(945)







心ゆゑ西行花となる夕べ






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西行全歌集ノート(10)




1月22日

思ひやる心や花に行かざらん霞こめたるみ吉野の山

西行 山家集 上 春

※ ここにも、「心」が出てくる。この心は、自分の外の存在に向けられている。その向けた心が花には届かないのかと、嘆息している。心は、存在に対する想像力を伴うものでもあったのだろう。

ところで、虚子が、南京陥落の時に朝日新聞の求めに応じて詠んだ俳句を次に見てみよう。

12月9日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて 寒紅梅馥郁として招魂社

昭和12年12月10日から、南京大虐殺が始まる。その前後の俳句を抜き出すと次のようである。

1月23日 マスクして我と汝でありしかな

4月9日 花の如く月の如くにもてなさん

6月5日 老い人や夏木見上げてやすらかに

7月24日 月あれば夜を遊びける世を思ふ

8月8日 夏山やよく雲かゝりよく晴るゝ

10月15日 老人と子供と多し秋祭

11月8日 秋天に赤き筋ある如くなり

11月14日 静かさに耐へずして降る落葉かな

12月8日 砲火そゝぐ南京城は炉の如し

12月8日 かゝる夜も将士の征衣霜深し

12月9日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて 寒紅梅馥郁として招魂社

12月11日 女を見て連れの男を見て師走

12月24日 冬麗ら花は無けれど枝垂梅

12月25日 行年や歴史の中に今我あり

※ どうだろうか。虚子に心がない、と非難したいわけではない。むしろ、外部の存在(とりわけ自然存在)に対して、想像力は十分すぎるほど働いているのだ。ただ、戦争について、まったく、想像力が、あるいは理解が、届いていないことがわかる。それは、なぜなのか。社会的存在に対する冷淡とも言えるこの無関心は何なのか。

翻って、西行は、平安末期から鎌倉時代を生きた。戦乱の世でもある。彼の心は、戦乱をどう見たのか、戦乱でどう変化したのか。この辺りが、今後、「心」のありようを見てゆく時のポイントになると思う。心は流れる水のごときものなのかもしれない。
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一日一句(944)







大寒の耳より銀河始まりぬ






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西行全歌集ノート(9)




1月21日

空に出でていづくともなく尋ぬれば雲とは花の見ゆるなりけり

西行 山家集 上 春

「空に出でて」とは、あてもなく出て。この歌を読むと、花は雲に近い上方にあるのが普通だったという山桜としての花のありように、今さらながら驚く。花見は山見、雲見、でもあったわけだ。平地に花が移行してくるのは、おもに染井吉野からだとすれば、それまでは、山に行かなければ、花には会えなかったわけだから、花を見る、花と一体になる、という機会の価値が、今とはすいぶん違っていたろうと想像される。貴重であったはずである。

谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』の夜桜は、不意打ちのように、現れる一本の櫻であるが、こういう花との偶然の出会いは、目的意識をもった出会い方よりも、はるかに、心に突き刺さるものであろうことは想像に難くない。

「かかる時、かかる谷あいに、人知れず春を誇っている花のもまた「夜の錦」であることに変わりはない。あたかもそれは、路より少し高いところに生えているので、その一本だけが、ひとり離れて聳えつつ傘のように枝をひろげ、その立っている周辺を艶麗なほの明るさで照らしているのであった」

出会いは、出会った双方を変えてしまう。それが出会うということの本質なのだろう。少将と出会った後は、花も変わっていたはずである。



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一日一句(943)







寒鴉その黒にしてその瞳






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