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一日一句(948)







寒の雨しきりにたれか戸を叩く






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西行全歌集ノート(14)




1月26日

花散らで月は曇らぬ世なりせば物を思はぬわが身ならまし

西行 山家集 上 春

※ ここで、注目したいのは、「物思う」という言い回しと「わが身」という表現。物思うは、物思いなど、今でも秋の頃によく使われる。一般的には、物思いとは、思い煩うことや愁いを指し、ここでも、花が散る、月が雲に見えないことへの愁いを歌っていると考えられる。だが、このときの物とは何か。端的に言うと、多くの国語辞典や古語辞典では、最後の方に出てくる「神仏、妖怪、怨霊など、恐怖、畏怖の対象」というのが、それにあたると思う。むしろ、これが主要な意味だったと思う。この使い方でもっとも古い文献資料は753年くらいの仏足石歌に残っている。用例自体は、古代のミメーシスと直接関わるから、もっとはるかに古くからあったはずだが、書き言葉として残っているのが、これだったということだろう。仏足石歌では、毛乃(モノ)と表記している。音が先だったことがこれでも示唆されている。

つまり、なにが言いたいかというと、物とは、岩手県釜石の方言に残っているような、「人につくもののけ」「憑き物」をもともとは意味したのだろうということ。言いかえれば、心の運動と関わっている最たるものであること。物とは、外部の自然存在に心が憑依した結果、外部の自然存在を身体へ呼び込んできた状態を指すのである。狂とも関わる。「わが身」は、心に常に先行しながら、物の器となることが示唆されている。



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