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西行全歌集ノート(10)




1月22日

思ひやる心や花に行かざらん霞こめたるみ吉野の山

西行 山家集 上 春

※ ここにも、「心」が出てくる。この心は、自分の外の存在に向けられている。その向けた心が花には届かないのかと、嘆息している。心は、存在に対する想像力を伴うものでもあったのだろう。

ところで、虚子が、南京陥落の時に朝日新聞の求めに応じて詠んだ俳句を次に見てみよう。

12月9日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて 寒紅梅馥郁として招魂社

昭和12年12月10日から、南京大虐殺が始まる。その前後の俳句を抜き出すと次のようである。

1月23日 マスクして我と汝でありしかな

4月9日 花の如く月の如くにもてなさん

6月5日 老い人や夏木見上げてやすらかに

7月24日 月あれば夜を遊びける世を思ふ

8月8日 夏山やよく雲かゝりよく晴るゝ

10月15日 老人と子供と多し秋祭

11月8日 秋天に赤き筋ある如くなり

11月14日 静かさに耐へずして降る落葉かな

12月8日 砲火そゝぐ南京城は炉の如し

12月8日 かゝる夜も将士の征衣霜深し

12月9日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて 寒紅梅馥郁として招魂社

12月11日 女を見て連れの男を見て師走

12月24日 冬麗ら花は無けれど枝垂梅

12月25日 行年や歴史の中に今我あり

※ どうだろうか。虚子に心がない、と非難したいわけではない。むしろ、外部の存在(とりわけ自然存在)に対して、想像力は十分すぎるほど働いているのだ。ただ、戦争について、まったく、想像力が、あるいは理解が、届いていないことがわかる。それは、なぜなのか。社会的存在に対する冷淡とも言えるこの無関心は何なのか。

翻って、西行は、平安末期から鎌倉時代を生きた。戦乱の世でもある。彼の心は、戦乱をどう見たのか、戦乱でどう変化したのか。この辺りが、今後、「心」のありようを見てゆく時のポイントになると思う。心は流れる水のごときものなのかもしれない。
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