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近江商人と芭蕉(2)

■旧暦2月18日、土曜日、のち

(写真)苔

すきっ腹で健康診断に出かけて、帰宅したら、なんだか疲れてしまった。午後、昼寝。確定申告ができなかった。明日、やらんとしょうがないな。メガネを10年ぶりに新調したら、やけに視野が明るい。今までのレンズは相当くたびれていたな。しかし、ずいぶん、メガネは安くなった。隔世の感あり。

埋火や世をくつがへす謀りごと   長谷川櫂

という先生の句がある。ここ数日の小沢一郎をターゲットにした東京地検の動きとマスコミのいっせい報道を見ていると、「政治的意図」を感じるのは、ぼくだけではないだろう。いくつか、こうした動きの裏が考えられると思う。

1.この「事件」で一番の利益を得るのは、与党であるから、当然、与党の延命を図りたい勢力がシナリオを描いた。マスコミのキャンペーン効果を前提に、麻生の首を入れ替えて戦えば、衆議院選挙では拮抗できるというのがその勢力の計算なのではないか。この場合、この勢力と検察、マスコミの三者関係が問題になる。どのように、この勢力は検察とマスコミに影響力を行使できたのか。また、この勢力とは具体的に何のか。実体あるグループなのか、ネットワークのような不可視的なものなのか。

2.検察が、外部勢力の圧力ではなく、何らかの独自の政治的判断で、今回の「事件」を、このタイミングで事件化した。この場合、検察には強い確信と独自の見通しがあるはずだから、やがて、事件の核心が明らかになるはずである。この場合、なぜ、小沢から始めたのか、なぜ、このタイミングなのか、自民党への切り込みは、どのタイミングで行うのか、あるいは行わないのか。そして、それはなぜなのか。こうした一連の疑問が残される。

いずれにしても、結果的に、今回の捜査は、国民の生活に直結した政権交代に重大な影響をもたらすのだから、国会が、検察の捜査方針について、説明を求めるのは自然ではないか。今回、奇妙なのは、マスコミで、とくに、新聞報道を見る限り、権力や権威に批判的に対峙するというマスコミ本来の機能が、ほとんど果たされていない。まるで、ヤジ馬かチンドン屋、さもなければ、にわか「正義の味方」である。これは、産業マスコミの本質とも言えるし、メディアコントロールの成功事例とも言えるのではなかろうか。



「近江商人と芭蕉」というテーマで、ぼちぼち、調べているのだが、「近江」という土地は、風光明媚で吟行に最適、くらいの認識しかなかったが、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを読んで、ずいぶん、目が開かれた思いがする。


・叡山をひらいて天台宗の始祖になった最澄もこのあたりの渡来人の村の出身である。最澄のうまれは称徳女帝の神護景雲元年(767年)だから、半島からの渡来人がこの湖岸をひらいて村をつくってから二世紀ほど経ってからの出生であろうか。「湖西のみち」p.12

・中世では近江の湖族(水軍)という一大勢力がこの琵琶湖をおさえていて、堅田がその一大根拠地であった。…織田信長は早くからこの琵琶湖水軍を傘下に入れ、秀吉は朝鮮の陣に船舶兵として徴用し、かれらに玄界灘をわたらせた。「湖西のみち」p.14

・「安曇」という呼称で、このあたりの湖岸は古代ではよばれていたらしい。この野を、湖西第一の川が浸して湖に流れ込んでいるが、川の名は安曇川という。安曇はふつうアズミとよむ。古代の種族名であることはよく知られている。かつて滋賀県の地図をみていてこの湖岸に「安曇」という集落の名を発見したとき、(琵琶湖にもこの連中が住んでいたのか)
と、ひとには嗤われるかもしれないが、心が躍るおもいをしたことがある。安曇人はつねに海岸にいたし、信州の安曇野をのぞいて内陸には縁がないものだとおもっていた。「湖西のみち」p.22

・かれら(安曇族)は太古、北九州にいた。
そのもっとも古い根拠地については、
「筑前糟屋郡阿曇郷が、阿曇の故郷であろう」と本居宣長がその著『古事記伝』でのべたのがおそらく最初の指摘であろう。『古事記』にある安曇系(海人系)の神話をみてもごく普通になっとくできるところで、かれらが種族神としてまつっていた神が、宇佐、高良、磯賀という九州の大社に発展してゆくことは周知のとおりである。ひょっとすると、蛋民はアジア全体にひろがっていたのかもしれない。「湖西のみち」p.23


※司馬遼太郎のエッセイを読むと、心が落ち着く。歴史のもつ力なのだろうか。



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