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芭蕉の俳句(219)(220)

■旧暦2月11日、土曜日、

(写真)氷川神社

やっと晴れたが、北風が凄い。アファナシエフは、一篇一篇訳していた時には、そうでもなかったが、40篇まとめて相手にすると、相当、危険を感じる。精神的なバランスを崩さないように、俳句を詠み・読み、ながら、仕事をしている。



病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 (笈日記)

■元禄7年作。有名すぎるほど有名な句。風雅への執着と安心(仕官や仏門など、精神的に安定した暮らし)との相克に引き裂かれた想いが現れている、というのが、一般的な理解だが、「軽み」の延長線上に捉えると、死に際まで、俳諧に執着する己をどこかで笑っているような気配がある。人間、まともに生きようとすれば、既存のイデオロギー集団や既存組織、金儲けに疑問を持つのは、当たり前で、結果的に不安定な生活を強いられる。芭蕉は、そういう風にしか生きられず、それがゆえにアウトサイダーだったのだろう。また、そういう人でしか詠めない境地があると思う。


清滝や波に散り込む青松葉
  (笈日記)

■元禄7年作。これも物凄い。死の直前まで、推敲していた句である。自分の句との類想を避けたいという一念だったようだが、ストイックさもここに極まった感がある。死の床で作られたとは思えない清涼かつダイナミックな句で惹かれる。なぜ、ここまで、芭蕉は俳諧に執着したのか。芭蕉ほどの人が、後世の名声を気にして、幼稚な名利の奴隷になっていたとは思えない。むしろ、逆に、本当の意味で歴史に連なりたいという必死の思いがあったように思う。この一筋に連なる。

※ これで、芭蕉の発句はすべて検討した。220句がぼくの感性に引っ掛かってきた。「連載」という概念は、おそらく、新聞・雑誌の誕生と係わりがある。本ブログは、インターネットという新メディアの特徴を最大限引き出すために、商品・消費の論理から逸脱していくことをモットーとしている。したがって、芭蕉の発句の検討は、「終了しない」。「反復・展開」する。一つは、歌仙の検討という形で、もう一つは、テキストを替えて発句を一から検討し直すという形で。「反復・展開」は、面白いことに、古典を読む論理と通底している。



Sound and Vision

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