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Marxを読む:「経済学哲学草稿」(3)

■旧暦7月24日、日曜日、、秋雨だった

(写真)吾輩

今日は、掃除して、雑用して終わった。この季節、黴がけっこう生えるので、風呂の掃除を念入りに行ったのだった。



マルクスを少しずつ読んでいるが、二つ問題意識が出てきた。ひとつは、どういう社会をマルクスがイメージしていたのか、ということ。マルクスがめざした社会のイメージを経哲草稿のテキストに即して検討してみるということ。もうひとつは、類的存在とは何なのか、ということ。マルクスの経哲草稿を読んでいると、「人間とは類的存在である」というテーゼがアプリオリに出てきて妙に浮いて見える。これを前提に疎外が考えられている。おそらく、類的存在は、ヘーゲルの「人倫」やアリストテレスの「社会的存在」といった概念を踏まえているのだろう。この「類的存在」の内実とその根拠・説得性を検討してみる。

前期マルクスがアプリオリに理想の社会像を前提にして、そこからの疎外を語ったのに対して、後期マルクスは理想社会を語らずに批判というアプローチで理想社会のありようを象った。こんな言説もよく行われている。マルクスを前期・後期に分けて、思想の断絶を述べる言説も併せて検討してみたいと思っている。




コミューン主義はその最初の形態においては私的財産の普遍化と完成であるにすぎず、そのようなものであるがゆえに二重の形態であらわれる。まず、物的な財産の支配があまりに大きく立ちはだかっているので、コミューン主義は、私有財産として万人に所有されえないすべてのものを否定しようとする。コミューン主義は暴力的なやりかたで才能などを無視しようとし、肉体にかかわる直接的な所有を生活と生存のただひとつの目的とみなす。労働者という規定は放棄されるのではなく、むしろ万人に拡張される。私有財産というありかたは、共同体が事物の世界をみんなで共有するというありかたにとどまっている。私有財産にたいして普遍的な私有財産を対置しようとするこの運動はついには、結婚(これはもちろん排他的な私有財産の一形態だが)に女性共有を対置し、したがって女性を共同体の共有財産にしるような動物的な形態であらわれるまでになる。女性共有というこの思想こそは、まだまったく粗野で没思想的なこのコミューン主義の公然たる秘密であるといえよう。女性が結婚から脱して普遍的な売淫に入り込むように、富の世界全体、つまり人間の対象的本質の世界全体は、私的所有者との排他的な結婚の関係から脱して、共同体との普遍的な売淫の関係に入り込む。
『マルクス・コレクションⅠ』経済学哲学草稿 第三草稿「私有財産とコミューン主義」2005年(筑摩書房)pp. 346-347

■この箇所を読むと、中国の文化大革命やカンボジアのクメール・ルージュが行ったことがまさに「粗野なコミューン主義」でしかなかったことに思いいたる。こうした歴史的な経験があるのにも関わらず、いまだに、左翼的な人々の中には、肉体労働に対する根深いコンプレックスが見受けられて、唖然とすることがある。ぼくは、こうしたコンプレックスに、文化大革命やクメール・ルージュと同じ匂いをかいで、危険性さえ感じるのである。

このコミューン主義は、―人間の人格性をいたるところで否定するのであるから―ほかならぬこの人格性の否定である私有財産の徹底した表現でしかない。力として組織されたこうした普遍的な妬みは所有欲をつくりだす隠れた形態にほかならず、ただそこでは所有欲がある別のやりかたで満たされるだけである。すべての私有財産をそのようなものとして考えるような思想は、すくなくともより豊かな私有財産にたいしては妬みと平均化の要求として立ち向かうので、それらは競争の本質をなすものにさえなる。粗野なコミューン主義者とは、想像上の最小限からのこうした妬みと平均化の完成でしかない。彼はある限られた尺度しかもっていない。私有財産のこうした廃棄によって現実に得るところがどれほどわずかであるかは、教養と文明の世界全体が抽象的に否定されてしまい、私有財産を超えるどころか、いまだかつて私有財産に到達さえしていないような貧困で無欲な人間という不自然な単純さへ立ち戻ってしまうこところに、まさしく示されている。『マルクス・コレクションⅠ』経済学哲学草稿 第三草稿「私有財産とコミューン主義」2005年(筑摩書房)p. 347

■こうしたマルクスのアプローチを見ると、「批判」というものが初期から一貫して方法論的な基礎になっていたことがわかる。ここでは、「粗野なコミューン主義」を批判して、なにか実体的で理想的な社会を語るのではなく、「粗野なコミューン主義」との差異を際立たせるにとどまっている。そのため、この箇所を読む限り、どのように私的所有を廃棄するのかは、あるいは、そもそも廃棄するのかどうかさえ、語られていない。

ここで述べられている嫉妬と平均化というのは、戦後の日本社会が歩んだ歩みそのもので、現在、「嫉妬」の方がやや前面に出てきていると感じる。そして、平均化の方向性は今も根強くある。戦後日本の政策は「社会主義的」と言われるが、「粗野なコミューン主義」との関わり考えると面白いのではないか。

私有財産という現象は、非常に根深く、まるで、人間の業のように感じられるし、社会で何年も生きていれば、それだけ、自分も含めて、そう思えてくる。しかし、必然的に思える現象も、社会的・歴史的に見れば、必ずしもそうではないはずである。インディアンやアボリジニには土地所有の観念はない。日本の場合は、どうなのだろう。律令制や荘園制が確立する以前の太古の日本は。



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