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関西での対話(2) 蟻の兵隊

日曜日、。旧暦閏7月11日。

午後、掃除して、夕方、喫茶店で、H・カレール・ダンコースの『レーニンとは何だったのか』(藤原書店)を読む。600ページ以上もあり、返却日も迫っているので、結論と解題だけ読んだ。

「レーニンとスターリンの間にあるのは、革命の理想に献身するあまり、時に不法で残酷な手段に訴えざるを得なかった誠実な革命家と個人的な権勢欲に燃える粗暴な野心家という決定的な差異ではなく、せいぜいがニュアンスの差、むしろ、継承性と発展である」(『同書』p.625)

レーニンにしても、毛沢東にしても、ポルポト、金日成にしても、罪深い。その罪深さは、人格の罪深さなのか、歴史の罪深さなのか。



忘れてしまわないうちに、映画の感想を述べておきたい。関西旅行は、こっちを朝の6時半の新幹線で立った。十三で朝10時から「蟻の兵隊」を観るためである。

この映画「蟻の兵隊」は、「日本軍山西省残留問題」を扱ったドキュメンタリーである。映画は、元残留兵奥村和一さんの姿を追う。奥村和一さんの表情がいい。実に悲惨で理不尽な体験をしているのに、温厚でいい表情をしている。この温和な表情が、徐々に変貌する。最後の生き残りの証人の元上官から、残留問題の証言を得ようと電話するが、相手にされない。電話では埒があかないと雨の中を自宅まで押しかけるが、過去のことは忘れたとする上官からは、ついに証言が得られない。温厚な奥村さんから表情が消え、能面のような恐ろしい顔になる。この変化をカメラは静かに捉える。このあたりは、「行き行きて神軍」とも似ている。

この映画の山場は、国民党軍側に立って、共産党軍と戦った中国山西省を、奥村さんが訪れるシーンだろう。戦争の悲惨を知る農民と奥村さんとの対話、日本軍に17歳で輪姦された中国人女性の言葉。共産党軍の元兵士の言葉。さまざまな言葉が、表情が、土地の風景が、映し出される。輪姦された中国人女性は、話しながら嗚咽するが、一兵士の行為は軍の命令だとして許すのである。このシーンでは、涙が出そうになった。中国農民の首を日本刀で切り落としていた処刑場を知っている中国農民たちは、杖をついて補聴器をつけた奥村さんの姿を見て、ささやく。「おい、あんなおじいさんだぞ、杖もついているぞ」奥村さんと中国農民の対話では、けっして、農民は奥村さんを見ない。見ないまま、いかに戦時中、日本軍が野蛮だったかを手振り身振りを交えてしゃべるのである。黙って頷きながら聞く奥村さん。共産党軍の元兵士は、日本軍が戦争が終っても残っていることが理解できない。天皇のために戦うのならまだ理解できるが、なぜ、国民党軍のために戦ったのか。

日本軍に雇われて砲台陣地を守備した中国人の子孫に、奥村さんは突如、怒り始める。なぜ、逃げ出したのか。敵前逃亡はもっとも恥ずべきことだ、とその息子や孫に怒りをぶちまけるのである。そのとき、奥村さんは、完全に日本兵に戻っている。「自分の中には日本兵がまだいるのです」奥村さんの言葉である。

冒頭、靖国神社が出てくる。正月の靖国である。
「奥村さん、今日は、参拝ですか」
「とんでもない、資料を調べに来たんですよ」
「奥村さん、靖国についてどう思いますか」
「侵略戦争を戦った兵士が神になることはありえません」

残留兵士2,600人。敗戦後、4年間残留して共産党軍と戦い、5年間抑留生活を送る。550人が戦死、700人以上が捕虜となる。

「天皇陛下万歳! と言って死んでいったんですよ。どうして、これが軍命令でないと言えるんですか」



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関西での対話(1) 虚子の戦中俳句(三)

金曜日、。旧暦、閏7月9日。秋の雨である。

旅の2日目は、おもに芦屋の「谷崎潤一郎記念館」と「虚子記念館」に行った。芦屋という街は、一種、独特の街で、北から阪急、JR、阪神と駅が並んでいるのだが、普通の駅前とは様子が異なる。どう違うかと言えば、コンビニや喫茶店、定食屋、レストラン、飲み屋といった飲食店がほとんどないのである。まったくないと言ってもいいかもしれない。友人と昼飯を食おうと思ってかなり探した末に妙なカフェをやっと探し当てた。これは、街に庶民性が皆無ということではあるまいか。高級レストランは、住宅街に点在しているのである。

そんな街にある「谷崎潤一郎記念館」は、松子夫人の「芦屋は第二の故郷」発言から出発している。谷崎自身、芦屋に住んだのは1年強だった。もうすぐそこが海で、潮の香りが漂う地域に、鉄筋コンクリート2階建ての日本家屋の記念館はある。ここの庭園は、谷崎の関西最後の住居、京都せんかん亭の庭を再現している。記念館でもっとも印象的だったのは、『痴人の愛』ナオミのモデルになった義妹の写真と再現された書斎だった。ナオミは、水着姿で海に入り、すこしかがんで右手を前に差し出しながら、笑っている。足が細くショートカットの顔はモデル風の美人顔。現代的で洋風の美人だった。有名な松子夫人は、面長だが、完全な和風の顔立ちで、美人かどうかは意見が分かれるだろう。だが、親しみ易そうな表情をしている。谷崎の書斎は、庭園に面し、和風の机と肘掛と座布団からなる簡素な6畳で、床の間には掛け軸と花が飾ってある。子規の終焉の6畳間を見たときに感じた明るい光が、この書斎にも溢れている。

観終って、しばらく、六甲の友人と庭園で話した。このときの話の「キーワード」は「階級」だった。いったい、今の日本で庭園のある一戸建ての家に住める人がどれだけいるだろうか。やはりマルクスは正しかった。こう述べると、彼は池に目をやった。確かに、谷崎の学歴、出身、友人関係、婚姻、親戚関係などを見ると、米国の社会学者ライト・ミルズが述べた「パワーエリート」の概念が、ある面当たっているようにも感じる。ぼくは、この「階級」というキーワードを聞いたとき、別のことを考えていた。それは一言で言うと、「大衆化」である。谷崎が反道徳的なさまざまな本を世に出したときの理解者層と現在の理解者層は大きく異なると思う。その理解の仕方も、おそらくは、「上流階級の背徳」という捉え方から、「現実の世相に近いもの」という捉え方に変わっている。ここにあるのは、階級対立というよりも福祉国家による階級対立の緩和(あるいは隠蔽)が働いているように思う(現在、急速に二極化しているが、まだ、福祉国家の名残がある)。この記念館の入場料金は300円である。ぼくらが、古典を読んだとき、貴族の夢物語ではなく、普遍的な男女の物語の一バージョンとして読めるのは、こういう社会的な背景があるからなのではないか。ただ、そのとき、ぼくらは、いったい誰に感情移入しているのか、自覚的であることは大事なことだろう。それは歴史の勝者、支配者であることは間違いないのだ。



さて、虚子である。

昭和13年(1938年)は4月1日に国家総動員法が施行された。急速に自由が失われていく。
たとえば、こんな具合である。

1月9日 パーマネントは醇風美俗に反するとして業者の新設・移転を禁じる
2月27日 岩波文庫の社会科学関係の28点が自発的休刊を強要される
7月1日 革のおしゃれが禁止される
7月7日 大阪の盛り場に「国策料理」が現れる 
7月10日 警視庁がダンスホールに女性の入場を禁止する
9月27日 内務省が子供の雑誌の「彼氏」という言葉を用いることを禁じる

「あーのねえおっさん、わしゃーかなわんよ」という言葉が流行する!!

こんな時代に詠まれた虚子の句を見てみよう。

1月24日 何事の頼みなけれど春を待つ

2月12日 病にも色あらば黄や春の風邪

3月11日 桜貝波にものいひ拾ひ居る

4月3日 鬱々と花暗く人病みにけり

5月17日 バスの棚の夏帽のよく落ちること

6月23日 我思ふまゝに孑孑(ぼうふら)うき沈み

6月23日 箱庭の月日あり世の月日なし

6月24日 己が羽の抜けしを啣(くわ)へ羽抜鳥

7月25日 喜びにつけ憂きにつき髪洗ふ

7月27日 端居して垣の外面(とのも)の世を見居る

9月29日 秋風や心の中の幾山河

10月2日 目のあたり月の遊女の舟遊び

10月3日 何某に扮して月に歩きをり

11月7日 我静なれば蜻蛉来てとまる

12月18日 襟巻に深く埋もれて帰去来(かえりなん)

■このとき、虚子65歳。4月3日の句に、さすがの花鳥諷詠の人にも憂悶が現れている。6月23日の箱庭の句や9月29日の句には、社会的な時間が停止したような感じを受ける。7月27日の句は、「外面の世」が只ならぬものだけに印象的である。

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