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ブラームスの「四つの厳粛な歌」

金曜日、。旧暦、8月8日。

このところ、疲れていて調子が今ひとつ。朝はモカ錠をブラック珈琲で飲み、夕方は疲れてきたので、「かむかむレモン」を2つ食す。「かむかむレモン」はかなり効くので愛用している。疲労感がすーっと消える。

ぼくの数少ない趣味の一つが筆記具である。伊勢丹に散歩に行ったついでに、文具売り場を覗くと、パーカーの新作ボールペンが2000円であった。何も考えずに購う。家内に言わせると、ボールペンほど、いわゆる「高級」品がバカバカしいものはないと。100円や200円のボールペンの方がインクボテもなく書き易いってことはままある。確かに、この意見は正しい。しかし、それでも、買うのである。なぜか。もちろん、ブランド志向などは、まったくない。それは、物に愛を注ぎたいがためなのである。使い捨てが前提のボールペンには、愛は湧かない。大量生産が前提の2000円ボールペンでも、愛用していけば、己の一部になる日が来る。そんな関係を物たちと結びたいのである。



ここ数日、ブラームスの最後の歌曲「四つの厳粛な歌」をよく聴いている。この曲は、1896年にクララ・シューマンが倒れ、その死の予感の中で書かれている。そのためか、最初の3つの歌は、ひどく暗く重い。最後の曲で愛を歌い上げて救われた気分のうちに終るのだが、ぼくは、その暗くて重い歌に衝撃を受けた。第2曲と第3曲の詩を以下に書き写してみる。



わたしはまた

わたしはまた、日の下に行われる
すべてのしいたげを見た。
見よ、しいたげられる者の涙を、
彼らを慰める者はない。
しいたげる者の手には権力がある。
しかし彼らを慰める者はいない。
それで、わたしたちはなお生きている生存者よりも
すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。
しかし、両者よりもさいわいなのは、
まだ生まれていない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

出典:旧約聖書「伝道の書」第4章第1節~第3節
翻訳:西野茂雄



おお、死よ

おお死よ、おお死よ、お前はどんなにかにがいことだろう、
来る日も来る日も安らかで、心満ち足り、なんの心配もなく
生きている人、思うことすべてがかなえられ、
腹一杯に食べることのできる人が
お前のことを考える時は!
おお死よ、おお死よ、お前はどんなににがいことだろう。
おお死よ、お前はどんなに快いことだろう。
力よわく、年老いた、貧しい人、
ありとあらゆる愁いにとざされ、
事情の好転をのぞむべくもなく、
期待すべくもない人にとって、
おお死よ、おお死よ、お前はどんなに快いことだろう。

出典:旧約外典「イエス・シラク書」第41章
翻訳:西野茂雄

■この歌を作曲してから一年後、ブラームスは世を去る。
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