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社会と俳句

水曜日、。旧暦、閏7月28日。

土曜、日曜と出ていた。土曜は、子どもの高校の文化祭に出かけてから、そのまま、ある公開講座に出た。ハイデッガーの「存在と時間」について、ルカーチの批判を踏まえて、明確な像を得ることができた。ぼくが思うに、ハイデッガーの「存在と時間」あたりから、哲学は社会理論に変わってきたのではないか。「存在と時間」は20世紀の哲学的な名著と言われるが、完全な社会理論だとぼくは思う。この理論の基本構成は、マルクスの疎外論と同じだが、人間存在を他の存在の中でも特権的に扱っている。その意味で、人間至上主義であり、その意味で、無神論を唱えていてもキリスト教のコンテキストが残存している(ここから白人至上主義への距離は比較的近い)。つまり、ハイデッガーの「存在と時間」では、「人と人の殺し合いは問題化しても、人が動物を殺していることは問題化しない」。賢治や一茶のような人間と自然との共生的な感受性がないのである。その点で、ハイデガーの「存在と時間」は、現在の問題(たとえば環境問題)に対して、アクチャルな理論とは言えないし、その元凶の一つとも考えられる。この講座は、おもに、ルカーチを合わせ鏡に、現代の西欧思想を検討している。

日曜日は、句会だった。はじめて披講というのを担当した。いろいろ、思うところがあった。やはり俳句は音読してみて、句として完成したものになる。黙読した時の印象と音楽になったときの印象は異なるので面白い。漢字や旧かなについて、考えるところもあるが、おいおい、整理していきたい。句会の後、連衆のみなさんと飲んだのだが、そのとき、面白い話になった。ぼくの俳句は、当初、メッセージ性の強いものだったが、今では、まるで別物になってしまって、戸惑う、というのだ。昔の俳句のことはすっかり忘れていたので、虚をつかれたように感じて、うまく返答ができなかった。ぼくは、メッセージは直接述べたらかえって伝わらないと述べたが、それでは、メッセージは間接的に述べればいいのか、というコンテキストで理解されてしまう。それも違和感が残った。

家でいろいろ、昔の句を思い出していて、確かに、5、6年前には、こんな句も詠んでいる。ちょっとびっくりした。

テレビとは国家なりしか毛布干す

白蓮や砂漠の死者の名を告げよ

総書記の背中で計れ雨の音

こうした句は、朝日歌壇の短歌に通じるようなところがあるように思う。こういう傾向の俳句ばかり詠んでいたわけではないが、一つの詠み方としてあったのは確かのようだ。ぼくは、あるときから、こういう句はダメだと思うようになった。それは、メッセージが直接的だからではない。メッセージが根源的ではないからだ。俳句は、文字数が少ない分だけ、根源的なものを詠むのに適している。時事的なテーマを詠めばアクチャルな作品になるというわけではまったくない。言葉を虚しく消費するだけの表層句になる可能性が高い。先日の飲み会で、答えるべきだったのは、こういうことだったか、と今ごろになってわかってきたのである。
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