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ミシェル・マフェゾリとニコ・シュテール(2)

水曜日、。旧暦、8月20日。

2) ニコ・シュテールの講演「知識界と民主主義界―市民社会は知識の娘か」

ニコ・シュテールは1942年生まれ。カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学、アルバータ大学教授を経て、現在、ドイツツェペリン大学カール・マンハイム講座教授。エッセン高等文化研究センター・フェロー、『カナダ社会学雑誌』編集人。カール・マンハイムの世界的権威で、1999年以降は、とくに知識社会論を全面展開している。「知識社会」提唱の第一人者。主な著作に、『実践<知>―情報する社会のゆくえ―』、『カール・マンハイム―ポストモダンの社会思想家』(以上、御茶ノ水書房1996年刊)、『知識社会論』(1999)、『現代社会のもろさ―情報社会における知識と危険性』(2001)、『知識政治―化学・技術の帰結を支配するー』(2005)などがある。

ニコ・シュテールの講演は、あらかじめレジュメが用意され、それに沿って、講演は進んだ。ここでは、その講演要旨を簡単に紹介して、その後、疑問に思う点を記してみたい。

シュテールは、マックス・ホルクハイマーの「正義と自由は互いに支えあわない」という主張から始める。
・この主張は、民主主義と知識の関係にも当てはまるかどうか。
・知識は民主主義を進めるかどうか。
・知識の進歩は民主主義にとって、あるいは市民社会にとって、個人にとって重荷になるかどうか。

このように、幅広く3つの問題意識を述べた後に、3つのテーマについて述べた。

1) 専門知識と市民社会を融和させる
2) 市民社会と私的財としての知識を融和させる
3) 市民社会と知識格差を融和させる

この3つのテーマについてシュテールは詳論していくのだが、その内容をまとめる気力はない。ただ、感じたのは、この3つのテーマが現代社会の知識をめぐる問題点あるいは課題になっているということだった。結論部で、シュテールは、抽象的な形ではあるが、次のような主張を述べている。

The basic claim for the moment however is that democratization in modern societies as knowledge societies increasingly extend to the democratization and negotiation of knowledge claim.

知識社会である現代社会の民主主義化は、知識主張(knowledge claim)の民主主義化と調整に及ぶ。

この主張が、具体的にどういうことをイメージしているのか、よく分からない。分からないが、シュテールは、科学的知識・学問的知識と社会の間の関係は、通常思われているよりも柔軟だと考えている。つまり、専門知識と大衆との距離は認めつつも、その距離は固定されているわけではないと、考えている。知識と民主主義の進展について、楽観的というよりも市民社会の諸組織の可能性あるいは人間活動の可能性に、ある意味で、賭けているような印象を持った。

ぼくが一番疑問に思ったのは、マフェゾリもシュテールもポストモダンの認識を共有している。その特徴の一つに社会の多元化の指摘があるのだが、その裏に一元化作用が陰画のように進行している事態を見ていないという点だった。つまり、「市場化」である。シュテールの場合も、その議論に「市場化」の位置づけがない。知識は、専門家や科学者が無前提に生産し、社会に配分されるのではなく、市場が知識の内容や形式を規定する。たとえば、自動車メーカーの社員であれば、ドライビングの快適さと安全性という命題から種々の必要な知識が演繹される。シュテールがイメージしているような、個人が市民社会において、何らかの主張を行うための知識というモデルは、ギリシャ時代のポリスがモデルになっているように思う。そこには「市場化の進展」という観点が弱い。確かに、テーマ3)にあるような「知識格差」という知識の配分問題は、社会の市場化によって結果されるものであるが、知識の形式や内容に対する市場の意味や市場志向の知識という本質的な問題が探究されていないように感じるのである。

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