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往還日誌(143)







■4月14日、日曜日。晴れ。

午前中、ヘーゲルの『精神現象学』を原文で読む会。きょうもいろいろ面白い話が出た。

ヘーゲルは『論理学』で、Verschiedenheit(差異)とUnterschied(区別)を「区別」している。

前者は、アンパンと飛行機のような「差異」について言い、後者はアンパンとジャムパンのような「区別」に用いる。

要は、後者は、同一カテゴリーが前提されるIdentitaetがあるが、前者にはない。

ヘーゲルの『論理学』は、故石塚省二先生が、ヘーゲルなら、『精神現象学』と『論理学』を勉強せよ、と言い残している。逆に言うと、専門家にならないのなら、この2つで十分だということである。

それ以来、『論理学』は気になっている。読書会の主催者のN先生に、『論理学』についても、ゆくゆくやりましょうと言ったところ、現在、ヘーゲルの『論理学』は校訂版などが何種類か出ていて、学会でも論争中で定まった版がまだないらしい。少しすれば、定まってくるから、そのタイミングがいいだろう、ということになった。

Verschiedenheit(差異)とUnterschied(区別)の話に戻ると、差異における差異と、区別における区別と、その差異と区別の区別、という二重性も、固定的なものと、ヘーゲルは考えていたわけでななく、暫定的に、議論の出発点としていると見た方がいいように思う。存在を、変化の相、運動の相で見るのが基本的なスタンスだからだ。

たとえば、数学者のポアンカレは、珈琲カップとドーナツという完全な「差異」があるものを、穴が一つということで、同じ存在と見なした。このように、一見、差異がある存在に同一性を見出す作業を「数学的原理」と考えている。

この逆に、一見区別のない同じものに、「区別」を見出す作業が、グレゴリー・ベイトソンの言う「人類学的原理」である。

であれば、「差異」と「区別」の区別にも、同一性があり得ることになるだろう。

午後、御所の外周を、石薬師御門、清和御門、寺町御門と南に下って、丸太町の椹木口から北上し、一条通りを西へ歩いて、堀川の一条戻り橋を超えて、大垣書店へ、定期購読の雑誌を取りに行く。雑誌や本の受け取りも、若宮の丸善から京都の大垣書店へ徐々に移行している。

大垣書店に隣接するカフェに初めて入った。Slow Pageという名前で、一種のシャレである。

珈琲は美味で、営業時間を聞いて驚いたのだが、朝8時半から夜11時までやっている。ラストオーダーは10時までだが。

なかなか、これほど遅くまで開いているカフェは、この近辺にはない。

このあと、さらに、堀川通を下って、堀川商店街を歩いて、東に渡って伊藤仁斎宅跡を北上し、東進して護王神社前を経て、蛤御門から御所に入って、清水谷家の椋の大木を撫でて帰る。

結構なウォーキングとなった。

堀川通の今出川通より北のエリアは、なかなか、切ない思い出のエリアであり、まだ、歩くことがためらわれている。



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一日一句(3222)







山吹やいまは待つ身の時の影






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