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往還日誌(105)





■11月6日、月曜日、きのう、夕方に、若宮へ帰還。朝6時半に起きると、若宮の路面は濡れていた。夜のうちに雨が降ったらしい。8時過ぎると、空が晴れてきた。

きのう、一定庵を出るときに、いつも、休日の朝に聞こえてくるジャズ・ピアノの音源が、南側の町家造りの音楽教室ではなく、北側の建物の一室からだとわかった。音のくる方向は、視覚的経験に影響を受けてしまい、バイアスが作られやすい。ジャズ・ピアノの練習をしているだが、一定のレベルの人が弾いているので、不快感はなく、むしろ、心地いい。

先日、初めて、京都で床屋に行った。「散髪屋」という名前の床屋で、美容院も経営している。狭いスペースの床屋だが、会社組織で運営しているらしく、髪を金髪に染めた若い長身の男性と、はきはきした感じの若い男性、さらに、中年の女性の3人で回している。関東で言う、「11cut」のように、手早く安くサービスを提供するというコンセプトの店である。

京都で初めて、と言ったが、そんなはずがない。4年間も住んでいたのだから、床屋には行っているはずなのだが、その記憶がまったく思い出せないのである。宝塚の逆瀬川に4年住んだときに通った床屋ははっきりと思い出せるのだが、なぜ京都の記憶がないのか、不思議である。ただ、思い出すのは、どうやら、当時は、床屋ではなく、美容院へ行っていた気がする、ということである。長髪が当時、40年前は、普通だったからだ。大学を卒業する4回生のときに、短くした記憶がうっすらある。これは私一人の個人的な経験ではなく、当時の、一般的な経験だった。

4日の土曜日、妻に頼まれた京こうじ味噌を買いに、室町一条の丹波屋に歩いていく。そのまま、烏丸通を南下して丸太町まで歩いて、地下鉄で四条烏丸に出る。

京都の地名の呼び方の順序は、基本的には、南北の通りを先にして、次に東西の通りを呼ぶ――室町一条のように。しかし、四条通りと三条通り、五条通りは例外で、この東西の通りを先に呼ぶ――五条室町のように。これがなぜなのかは、三条、四条、五条の通りというのは、一条通りなどに比べると遥かに繁華街だから、という説明が、今のところ、もっともしっくりする。この例外は、もしかしから、この3つの通り以外にもあるかもしれない。

四条烏丸の京都シネマで、映画「月」を観た。

津久井やまゆり園事件をモチーフにした、辺見庸の小説『月』を原作にしている。原作は読んでいないが、この映画は、原作をモチーフにして、かなり、忠実に、やまゆり園事件を再現しているように思える。

言葉を選ぶ必要があるけれども、重度の知的障害者に対して、「生きているだけで価値がある」とよく言われる。この表現にずっと違和感を抱いてきた。そこには健常者の驕りが含まれていないか、と感じるからだ。なにか、生産性のあることをやりたい、人の役に立ちたい、仕事がしたい、という思いが障害者にあると考えた方がいいように、私は思う。障害者は「神」ではないし、まして、「悪魔」でもない。一人の人間なのであるから。

たとえ、結果的に、そこに横たわっているだけであるにしても、それを、その人自身が、内側から、肯定的に受容できる社会的条件が存在したとき、そのひとの横たわりは、以前の横たわりとは、まったく違ったものになるのではないだろうか。

植松聖や杉田水脈らは、このことを、外部から勝手に暴力的に裁断してしまっている。「生産性のない人間は安楽死させるべきだ」という主張は、障害者の内側からではなく、外部からの、もっと言えば、統治権力からの、裁断に他ならず、植松と杉田は、国家権力の経済合理性のエージェントになっている。

この映画「月」のホームページのコラムで、上野山盛大さん(一般社団法人大地 AGALA 施設長)は、重度の知的障害者との間にも「コミュニケーション」が存在することを明確に述べている。つまり、重度知的障害者にも「心がある」と、そのコミュニケーションの経験を通じて断言している。

映画の中で、植松聖をモデルにした「さとちゃん」は、話ができない=心のない人間は、生きている価値がないと主張する。そういうかわいそうな存在だから、殺すのだという。

「コミュニケーション」できないから心がない。だから人間ではない、という外部からの一方的な裁断は、明らかな暴力である。しゃべれなくても、言葉があり、心がある。それはこちらの希望的観測ではなく、真実だと、上野山さんは13年間の重度障害者施設での介護経験から、断言している。

上野さんは、統治権力的な発想を完全に排して、目の前の障害者個人とのコミュニケーションに専念している。すると、見えてくるものがあると述べている。まばたきや表情によって、言葉のないコミュニケーションが存在していることに「気が付く」というのである。

ここで、植松と杉田を代表例として出したが、このふたりとそっくりなのが、ベンジャミン・ネタニヤフやヨアブ・ガラントなどを始めとした、イスラエルのシオニストであり、バイデンやトランプ、リンジー・グラハムなどの米国のクリスチャン・シオニストで、これらの人々には「国家権力のエージェントとしての感性」しかない。つまり、外部から勝手に、パレスチナ人を「人獣」などと裁断してホロコーストを行っている。

パレスチナ人ひとりひとりを「見よう」としていない。パレスチナ人に豊かな心があることに、「気づこう」としていない。映画「月」を観て、そんなことを感じた。

人間の言葉を話さなくても「心がある」ことは、たとえば、愛犬家や愛猫家は、例外なく、肯定するだろう。もっと、言えば、樹木や物にも、「心はある、宿る」と私は思っていて、京都の一定庵に入るときは、「ただいま」と声をかけ、若宮へ戻るときには、「ありがとう」と、声をかける。けれど、これは、そうそう、奇異なことではないのではないか?

映画「月」について、言うと、一つだけ違和感があった。それは、民衆が持っていているresilience(脆弱性(vulnerability)の反対概念で、弾性や自発的治癒力などと訳される一種の「力」である) をもっと描いても良かったように感じた。とくに、それを感じたのは、堂島洋子と昌平夫妻の描き方において。

石井監督は、さとちゃんに「障害者を見てイラっとしたことはないですか」「死ねばいいのに、と一瞬でも思ったことはないですか」「子どもが五体満足で生まれてくることを願ったことはないですか」と言わせている。

たとえば、朝の満員電車のホームで、障害者の人がなかなか先に進んでくれないとき、イラっとしたり、こんな時間になぜ、と思ったりすることがある。こうした我々の中にある、「植松聖」と、この映画は、向き合わせることになる。

つまり、「さとちゃん」と我々の「連続性」が、一つのテーマになっている。

これは、我々に自省を迫る。この自省は重要である。

しかし、同時に、「断絶性」がある。それは、こうした障害者は死ねばいい、という考えが、「習慣化」していないという点で、さとちゃんや植松聖と我々には、「断絶」があるのである。

この「断絶性」に光をあてることはさらに重要である。

これは植松聖やさとちゃんが、なぜ、そうした思考を「習慣化」させてしまったのか、その社会的な背景を考えることにつながるからだ。その「習慣化の社会的条件」を考えることになるからだ。

我々と植松、ネタニヤフなどが、決定的に違うのは、我々は障害者抹殺、あるいは劣ったと決めつけた存在の抹殺を肯定する思考を習慣化させていない、制度化させていない、社会化させていない、という点なのである。ここは、決定的に大切な点で、なぜかと言えば、この「思考の習慣化」を可能にした社会的条件を組み替えることで、「希望」が生まれるからだ。

植松やネタニヤフと我々の「連続性」は、自省を生み、「断絶性」は、社会分析を生む。

たとえば、植松の職場環境、たとえば、生育過程、たとえば、友人関係、たとえば、現在の教育制度。ネタニヤフで言えば…、絶句して、どこから考えればいいのか、今は、わからない。ヒトラーと社会・歴史の関係を考察するのと変わらない難しさがあるだろう。ただ、ネタニヤフと米国支配層との異様な結びつきは、考察の重要な論点だろう。あのブッシュが言いがかりをつけて始めたイラク戦争においても、ネタニヤフの米国議会証言――イスラエルに対するイラクの脅威の誇張と嘘――が重要な意味を持っていた。

ちょっと、脱線したけれども、映画「月」は、「連続性」も「断絶性」も意識して描かれている。ただ、どちらかと言えば、「連続性」に重きが置かれている。それは、現在の文学や映画などの芸術一般に言える傾向かもしれない。

私個人の考えでは、芸術においても、この両面が等価的に必要だと思う。また、そういう芸術は可能だと思っている。

少し、次元がずれるけれども、映画『月』について、考えていて、気が付いたことがある。ガザで子どもたちや女性を中心に8000人以上も虐殺されているときに、俳句をのん気に書くことに違和感があったが、――、俳句は理念的文学であり調和的な性格をもつからであるが、これを「存在の言葉を聴き取る方法論」として「自覚的に」用いた場合、それは、シオニズムや、クリスチャン・シオニズム、ファシズム、さらには、差別、排除といった問題に十分に抵抗しえるアクションになりえるということである。

それには、重要な条件がある。「現実を<正しく>知っていること」である。でないと、「自覚的に存在の聲を聴き取る」ことはできない。統治権力や国家利権村に不都合な現実を隠蔽する側に加担することになる。下手をすれば、シオニストやファシストの手先になる。ちょうど、第二次大戦において、虚子を始め、多くの俳人が提灯を持ったようにである。詩についても、ある部分は重なるが、詩はもっとはるかに、現実に侵されている。「現代詩」という概念は、夜の概念である。


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