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往還日誌(107)







■11月14日、火曜日。大宮氷川参道の夜の木々。

週末、きちんと休めていなかったので、きのうの月曜日は、夕方から、身心がかなりきつくなった。昼休みに市議会選挙の期日前投票を済ませ、夕方、メガネの調整にメガネシティKへ行く。

ご主人のKさんと少し話すと、肺がんが再発して化学療法を受けているという。髪がすべて抜けていた。Kさんの奥さんもパーキンソン氏病が悪化している状況にあり、ショートステイに行っている。

お子さんは、長浜で生活していて、なかなか、こっちへもどれない。厳しい状況だが、死ぬまで元気に、この仕事をしたいと明るく話しておられる。あやかりたいものである。



なぜ、社会システムは、マイノリティを常に、再生産するのか。つまり、差別を受ける人々を一定程度、常に作り出すのか。差別の問題、あるいは人を劣った存在として決めつけて見下す問題は、100年前の関東大震災の朝鮮人らの虐殺から、100年後のウトロへの放火といったヘイトクライムなどに、2022年7月8日の安倍さん暗殺のときの、朝鮮人がやった、といったネットを中心としたデマと、その後の、社会の反応などに現れている。

これは、日本社会では、ロシアに好都合になる情報として、まったく問題にされないけれども、2004年から始まり、2014年以降激化した、ウクライナのロシア系住民に対するウクライナの親欧米政権の虐待や差別、ジェノサイドともつながり、今、目の前で行われている、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドと一直線に連なっている。イスラエル人は、少数の例外はあるものの、パレスチナ人を、humananimal(人獣)と呼ぶ、ヨアヴ・ガラント国防相と、同じ差別意識を持っている。

さらには、津久井やまゆり園の事件を引き起こした植村聖の障害者への勝手なラベリングも、同じ、線上に連なっている。

差別している側の個々人の視点や感情とは別に、社会システム全体の視点に立つと、それが人権問題や国際人道法違反などの法的な問題だけではないことが見えてくる。

社会システムは、なぜ、常に、マイノリティを必要とするのか。社会システムは、そのマジョリティとの区分を、民族や性差、年齢や身心の条件など、恣意的に作り出しながら、差別や見下しや虐待、殺人まで作り出していく。

これを、社会システムにおける、統治の観点と資本主義の観点で見直すと、「民衆の分断統治」と「搾取するための外部の産出」という2つの側面があることが見えてくる。

分断統治は、古代ローマ帝国まで、その起源をさかのぼり、15世紀から始まった欧州と米国による奴隷貿易と、その後に今に続く植民地経営における必須の統治技法となった。

現在の植民地主義は、外部に展開すると同時に、深く内部にも展開しており、これが、「民衆の分断統治」として現象している。

資本主義は、絶えず、採取するための「外部」を作り出す。それは、植民地主義と非常に親和性が高い。互いをエンジンとして互いを推進している。資源搾取や奴隷労働として、「外部」を作り出していたものを、同時に、メビウスの輪のように、内部にも作り出してきている。

それが、「マイノリティ」として、マイノリティを再生産し続けていることの背景にあるのだと思う。

このとき、2つ重要な観点がある。

それは、社会システムについて議論するとき、差別されている人々――私の概念で言うと、「歴史的被害存在」――の実存的な苦悩や感情的な痛みに定位することが前提となる、ということである。

もう一つは、社会システムがマイノリティを再生産するとき、「知識」や「理論」が、統治権力と、操作された民衆に使用されるということである。たとえば、優生思想や、社会ダーウィニズムが典型である。

問題は、内容妥当性に問題がある、知識や理論ばかりではない、という点がやっかいなところなんだと思う。また、内容的に問題があっても、社会的に支配的になってゆくメカニズムが、社会の側に存在するという点が、さらに問題を複雑にしている。現に、ナチスのT-4作戦は実施され、その木霊は、現在も至るところに聞くことができる。

こうした問題群こそ、社会哲学・知識社会学のテーマであろうと思っている。
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