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一日一句(1629)







ことごとく六日九日十五日






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桶川三井精機の日誌



■桶川市協働推進提案事業「平和を考える10日間」から





「71年前の今日 桶川三井精機の日誌(皇国第1888工場)」と題して、日誌の朗読と市の民俗資料館のスタッフによる解説があった。

・昭和15年から20年の日誌
・昭和50年まで三井精機工場は若宮一丁目にあり、現在跡地は若宮団地になっている
・1940年(昭和15年)に工場設立
・石亀(甕?)繁太郎氏の日誌、工場長など、責任ある地位だったひと
・戦時の記録
・昭和15年8月16日にはじまる
・午後、福井業務部長に呼ばれ執務室へ、新会社へ出向の件で
・桶川町へ作る新工場へ
・日曜日、桶川へ、上野から高崎線、大宮から二つ目が桶川、一軒の家もない
・遠くに雑木林が見える
・工場付属の青年学校の設立に情熱を注ぐ
・石亀氏は、北海道出身、もともと、教育者で教壇に立ったと後に三井精機へ
・桶川町、寺と町の公民館に工場付属学校をはじめにつくった
・12月14日、県庁へ、青年学校の建築を進めている
・12月17日、工場起工式
・太平洋戦争へと
・昭和16年6月27日、ドイツがソビエトに宣戦布告
・ドイツにこの工場の建設は依存している
・6月25日、中島飛行機会社の友人が結核で入院、毎日残業で身体をやられたか
・12月8日、朝の7時の時報後に、大本営陸海軍発表、米英と戦闘状態に入る
・工場へ来てみると、ラジオを聞いた連中がざわついている
・自分は、訓示をした、一日中、大本営発表や政府発表を聞いていた
・ハワイ奇襲の成功、従業員は歓声を上げた
・昭和17年6月3日、第一回体育大会
・鴻巣警察署長も来ていた、本部からも
・ブラスバンドは工場の文化活動を代表する存在、
・合唱、吹奏楽、ハーモニカ
・工場で働く人々が出征
・11月24日、12名が応召、ブランスバンドを先頭に駅まで見送る
・昭和18年、5月にはアッツ島の玉砕
・昭和19年、空襲の記事が日誌に見られるようになる
・女子挺身隊入所
・7月4日、九州へ空襲あり
・7月18日、サイパン陥落
・サイパン島全員玉砕
・東条内閣総辞職
・工場へ動員された学徒
・熊谷中学の動員中の岩井くんが負傷
・12月20日、岩井君死去
・12月21日、熊谷中学へ行く
・12月31日、朝から風呂場つくり
・夜、空襲の断続サイレンが鳴る
・工場のバルコニーから見ると東京方面が焼けている
・職員289男、女5 工員男子2375 女子331 女子挺身隊89 男子学徒156 女子58 国民学校学徒(人数書き留められず)
・2月10日、敵の目標は、太田の中島飛行場
・昭和20年3月10日、空襲警報、闇の中を会社へ、バルコニーから見ると、東京の空は真っ赤(東京大空襲)
・4時、空襲警報解除
・東京の被害は想像を絶する、死者推定10万
・3月11日、朝3時警戒警報発令
・東京からの悲報ぞくぞく来る
・5月17日、沖縄方面の戦況、重大化
・熊中の校長が先生をひとり連れて来社
・川田谷飛行場9名が沖縄戦況を知らせに来る
・学業を捨てて工場で働いてくれた少女たちに感謝
・埼玉県にB29が来る
・敵機来襲、渋川、前橋、高崎方面がまっかに燃えている
・広島市に新型爆弾投下
・熊谷空襲3630戸消失、3000人が死亡(人数不正確)
・8月15日、指令所を出たり入ったり、
・熊谷の空もだんだん色が褪せてきた
・悪夢のような一夜
・熊谷空襲のための汽車も乱れている
・正午前、全員をロータリーに集め、ラジオを聴く
・はじめは難解な漢語のため理解できない
・従業員の中から嗚咽の声起こり世界は一転した
・家内の学校から帰っての一声「とうとう負けたのね」
・皇国1888工場は残った
・散歩に出てみたい、社宅の道へ、社宅はまだ静か、鎮守の稲荷神社へ、神前で柏手を打ち、今後の幸運を祈った

ここから歴史資料館館長の説明
・日誌:歴史学では日誌は資料として扱っていなかった
・近代の歴史は当事者が存命
・日誌は、昭和20年一杯記録は続く
・三井精機にも朝鮮半島からの人々も徴用されていた
・どうやったら半島出身者が気安くなるのか、朝鮮のひとの正月を工夫、食料も工夫
・戦後、どうやって朝鮮の故郷へ帰そうか、国からはなにもない
・帰国算段を工場独自につけて一名職員をつけて釜山へ半島出身者を送り届けている
・工場従業員3500名
・工作機械、飛行機部品製造
・桶川歴史民俗資料館で戦時資料を収集中
・石亀さん、昭和23年以降は、北海道の酪農高校へ戻り教壇に立っていた


※ けっして、石亀さんは、「鬼畜米英」などといった記述は書かない。天皇に関する記述も、朗読された箇所にはなかった。国が徴用した半島出身者の処遇も、いろいろ考え、国がなにもしないので、帰国まで、工場の責任でしている。石亀さんは、まったく、いま街を歩いている良心的なひとと変わらない。そういうひとは多かったのだろう。それでも、それだから、戦争は起こったのだろう。声を上げてゆくことは、未来世代への責任だと強く思った。なにもしない、なにも言わないのは、その社会体制に加担していると同じなのである。その社会体制に媒介されて生きているのだから。







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一日一句(1628)







八月や空にムンクの叫びあり






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