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ジョン・キーツについて




■ジョン・キーツ(1795-1821)の詩を、はじめて読んだのは、20歳のころだった。とくに、詩ばかり読んでいたわけではなく、乱読する中で出会った詩人だった。あまりピンと来なかった。恋愛詩などを読むと、ちょっと引けて自分とは感性が違うな、くらいの感じで、その良さはよくわからなかった。はじめて、その凄さに気がついたのは、ヘルダーリン(1770-1843)の詩を読むようになった後だった。この二人は、同時代人で、同じようにギリシャブームを経験している。18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパには、ギリシャブームがあったのではないかと思う。同時代人のヘーゲルも、その哲学的理念はギリシャのポリスに範を取っている。

最近、ジョン・キーツに三度目の出会いをしている。それは、若干25歳で亡くなったキーツが、ニュートンなどの科学に、根源的な批判をしており、―unweave a rainbow(虹を解きほぐす、分解する、要素に還元する)という科学批判。その批判はアクチュアルだと思う(現在でも要素還元主義が科学の基本である)―3.11後のいまにも届くものを持っていること(わたしは、単純な反科学主義者ではないが、科学には科学批判を、魔術には科学を!)。さらには、非常に興味深い概念、「negative capability」を、弟たちへの手紙の中で提示している点である。この概念は、ウィキを元にざっくり言えば、不確実なものや未解決なものを受容する能力と言える。

いまは、詳しく説明できないが、この概念が非常に重要だと、自分の直感が訴えてくる。ジョン・デューイなどの哲学者や作家も言及していることがわかった。ハイデッガーの概念、Gelassenheit(落ち着き、平静、ゆだねること)との類似を指摘する声もある。ぼちぼち、調べていきたいと思う。

その手紙は次のとおりである。



Hampstead Sunday
22 December 1818 My dear Brothers

I must crave your pardon for not having written ere this [ . . . ] [T]he excellence of every Art is its intensity, capable of making all disagreeables evaporate, from their being in close relationship with Beauty & Truth—Examine King Lear & you will find this exemplified throughout; but in this picture we have unpleasantness without any momentous depth of speculation excited, in which to bury its repulsiveness—The picture is larger than Christ rejected—I dined with Haydon the sunday after you left, & had a very pleasant day, I dined too (for I have been out too much lately) with Horace Smith & met his two brothers with Hill & Kingston & one Du Bois, they only served to convince me, how superior humour is to wit in respect to enjoyment—These men say things which make one start, without making one feel, they are all alike; their manners are alike; they all know fashionables; they have a mannerism in their very eating & drinking, in their mere handling a Decanter—They talked of Kean & his low company—Would I were with that company instead of yours said I to myself! I know such like acquaintance will never do for me & yet I am going to Reynolds, on wednesday—Brown & Dilke walked with me & back from the Christmas pantomime. I had not a dispute but a disquisition with Dilke, on various subjects; several things dovetailed in my mind, & at once it struck me, what quality went to form a Man of Achievement especially in Literature & which Shakespeare possessed so enormously—I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason—Coleridge, for instance, would let go by a fine isolated verisimilitude caught from the Penetralium of mystery, from being incapable of remaining content with half knowledge. This pursued through Volumes would perhaps take us no further than this, that with a great poet the sense of Beauty overcomes every other consideration, or rather obliterates all consideration.


重要部分のみ訳出すると:


「ディルクとは喧嘩したわけじゃなく、いろいろなことについて、細かい説明をしたんだ。いろいろわかってはっとした。とくに文学について言えるんだけれども、業績を残すような文学者になるには、ある資質が必要なんだよ。それはシェイクスピアが非常に多く持っていたもので、つまり、ネガティブ・ケイパビリティさ。事実や理由を追求して、すぐに答えを出そうとせず、不確実性や神秘、疑念の中にとどまる能力のことだよ。たとえば、コールリッジなら、半分わからない、というままにしておけないから、神秘の最深部でしか捕まえられない、ほかに類を見ないすばらしい迫真的なもの(verisimilitude)を見逃してしまうだろうね。ネガティブ・ケイパビリティは、多くの書物で触れられてきたけれど、これを突き詰めると、偉大な詩人にとっては、美の感覚というものが、ほかのどんな思想にも勝る、というか、ほかのすべての思想を消し去ってしまうということなんだろうと思う。」


そのジョン・キーツは、死の二年前、23歳のときに、To Autumnというオードを書いている。立秋になり暦の上では秋になった。異様に暑い日が続いているので、全編引用したいと思う。



秋に寄せるうた

                      ジョン・キーツ



霧と熟れたる豊穣(ほうじょう)の季節よ
恵みあふれる太陽の親しい友だちよ。
葉のひさしに捲(ま)き付いた葡萄(ぶどう)づるには重い房を
どんなに垂れ下げようかと、おまえは太陽と語らいたくらむ
苔むした納屋の古木(こぼく)には林檎(りんご)をたわわに実らせ、
すべての果物をその芯にまで熟れさせようとする、
またひょうたんを膨らまし、そして蜜蜂たちには
遅れ咲きの花をもっともっと開かせようとする。
夏が蜜蜂の巣の蜜房にねばねばと満ちていて、
暖かい日々の終わることがないだろうと思うまで。



誰が収穫のときにしばしばおまえを見かけなかったであろう。
ときおりおまえをあちこち捜したものなら、
おまえが穀倉の床のうえで吹き過ぎる
風に髪をゆるやかになぶらせて、
ただぼんやりと坐っているのを見かけたものだ。
あるいは半ば刈りとられた畝(うね)で
芥子(けし)の匂いに眠気を催し、
いっぽうおまえの鎌は、次の麦株と絡まる
花々を惜しんでぐっすりと寝入っている。
またときおりおまえは落穂(おちぼ)拾いの人のように
花をのせた頭を辛抱づよい目差し(まなざし)で
果物搾りから落ちる



春の歌ごとはどこに行ったのであろう。
ああ、いまはどこに。
そのことを思うてはならぬ、おまえには
おまえの歌がある-
たなびく雲は紅(あか)く沈まんとする夕陽(ゆうひ)に映(は)え、
薔薇色に切株の畑を染めるとき、
ちいさな羽虫のむれはかわやなぎの枝のなかで
かろやかな風が立ちまたやんだりするままに
高く運ばれあるいは低く降りたりしながら
哀しげにうたう、
生長した仔羊(こひつじ)がむこうの丘から啼(な)きつつやってくる。
垣根のこおろぎが鳴く、そしていま菜園に駒鳥が美しいソプラノで囀(さえず)る。
また空には。南に帰る燕のむれが囀っている。


《訳 出口保夫》





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一日一句(1613)







かなぶんや闇出でしもの深みどり






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