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リア王

火曜日、

今日は、午後から、仕事の打ち合わせで六本木に出かけた。新年から、日本文化を英語で発信する英文雑誌の編集・執筆を行うことになった。日英翻訳は、ぼくにとって、未知の領域であるが、ずっとやってみたかった仕事の一つであり、分野も、まさに、俳句や詩の関心が活かせるものである。週の前半は、六本木で仕事をして、後半は自宅で、出版の翻訳作業をする体制になる。数えてみたら、外に働きに出るのは、なんと11年ぶりである。緊張と喜びの入り混じった年明けとなった。



光文社が古典新訳文庫シリーズを昨年から出している。仕事上、大変興味をもっている。哲学・社会科学を中心に4冊ほど、購入したのだが、現在、安西徹雄訳の『リア王』を集中的に読んでいる。

評価する向きもあるけれど、正直にぼくの感想を言うと、この翻訳はあまり良くない。良い良くないを判断する基準は、過去のリア王の翻訳との比較ではなく、書き下された日本語戯曲との比較であるべきだとぼくは思っている。

いくつか具体的に指摘してみると、

リア王「…わが婿たるコーンウォール、それに、同様に、父たるわたしを気遣ってくれるオルバーニー…」

日本語の脚本家が「それに、同様に」という書き言葉を使うだろうか。この言葉を使うとせりふが間延びしないだろうか。

コーディリア「この若さだからこそ、真実を申せるのかも

ここだけ、今風の語尾を使うと、奇妙に浮いてしまわないだろうか。

リア「統治、歳入、その他、大権の行使はすべて、今やおぬしら二人のものだ」

官僚の言い回しではないだろうか。

リア「…それを、貴様、あえて傲岸不遜にも、わが宣告と大権のあいだに割って入ろうとしおった…」

四字熟語を使うと、書き言葉にならないだろうか。

読んでいると、こういう細かい箇所が一つ一つ気になってくるのであるが、ぼくが一番、がっかりしたのは、道化の造形である。この訳文の造形では、価値の逆転者としての道化の高貴さがまるで出てこない。言葉遣いが汚くとも、真理に触れる精神の高貴さは出ると思うが、この訳文では、まるで低いだけの人間造形になってしまっている。

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