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啓蒙とは何か

日曜日、。起きてすぐ、半分寝たまま、「ビジネス英会話」を聴く。けっこう、真剣に会話を勉強しようと思っているのだ。翻訳にも役に立つし。「ビジネス英会話」はレベルが高いので、本当は、「英会話入門」程度がぼくにはいいんだけれど、いかんせん、時間が合わない。午後、家人に、英訳した記事を見せて、いろいろ話す。いろいろ参考になったが、一番、面白かったのは、そもそもぼくの書いた日本語の文章が論理的ではないので、それをそのまま訳しても、英語として分からないということを発見したことだ。つまり、英語の文章の論理性は日本語の文章よりも緻密で、トピックも、あちこちに飛ばない。このため、日本語を書く段階、あるいは、英訳しながら、論理を分かりやすい流れに詰めていく必要があるのだ。やらなければならないことが山積していて目がくらみそうだ。



そんなわけで、というか、そんなときは、ひと時、逃避するに限るのだ。500円均一のクラシックピアノ映像紀行を観て、ぼーっとする。リストとショパン。このシリーズ、廉価版なのはいいんだけれど、演奏者がそろっていない。リストとショパンは、たまたまホロヴィッツとアラウだったので、購入。



カントの「啓蒙とは何か」(中山元訳カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫)を読んだ。非常に分かりやすく、啓蒙の何たるかが、手に取るように分かる。これは名訳じゃないだろうか。学生の頃、この論文は岩波で読んだが、さっぱり分からなかった。読んだという記憶しか残らず、内容は何も覚えていない。今回、改めて読んでみて、まるで、日本の現状を言っているようで、面白かった。この論文は、1784年に出されている!

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。(同書p.10)

まあ、大方の人にとって、耳の痛い言葉でしょうね。いわゆる「飼い慣らし」は組織であれば、どこでも行われていることですからね。また、そもそも、日本の教育システムの目標が、「未成年状態」を作り出すことにあると言っていいでしょうね。管理されやすい人間を大量に作り出すことで、地球規模の市場競争に勝ち残ろうというわけですな。南無! しかし、この「未成年」戦略って、途上国時代のものじゃないのかな。もう、社会全体が、大人の方向に行って、しかも、市場でサバイバルする道を探すべきでは?

後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚か者にする。そして、家畜たちを歩行器のうちにとじこめておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外にでようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ。(同書p.11)

これも思い当たる節、ありますね。

この未青年状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使するなど、とてもできないのだ。それに人々は、理性を使う訓練すら、うけていない。そして人々をつねにこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている。(同書p.12)

カントには、市場経済と啓蒙との関連性といった視点はないが、社会構造的な視点の萌芽はある。

人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。(同書p.19)

すばらしい人間性の規定ですね。

宗教においては未成年状態がもっとも有害であり、もっとも恥ずべきものだからである。(同書p.24)

創価学会の皆々様!

■全体を読んで、ぼくが感じたのは、カントは、啓蒙が行過ぎて、アナーキズムにならないようなバランス感覚があるという点だった。ただ、啓蒙の自己批判という観点も非常に大事だろうと思う。二度の世界大戦の悲惨と9.11以降を生きる者にとっては、ホルクハイマーとアドルノの次の言葉が、カントの啓蒙の裏側に響いてくる。

啓蒙思想は、その具体的な歴史上の諸形態や、それが組み込まれている社会の諸制度のうちばかりでなく、ほかならぬその概念のうちに、すでに今日至るところで生起しているあの退行への萌芽を含んでいるのである。もしも啓蒙がこの退行的契機への反省を受けつけないとすれば、啓蒙は自己自身の命運を封印することになろう。進歩の持つ破壊的側面への省察が進歩の敵方の手に委ねられているかぎり、思想は盲目的に実用主義化していくままに、矛盾を止揚するという本性を喪失し、ひいては真理への関わりをも失うにいたるであろう。『啓蒙の弁証法』pxii

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