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産経抄(2/7/2015)



(横浜市旭区二俣川)




■産経新聞は、ある意味、興味深いので、たまに読む。7日付けのコラム「産経抄」は、そんな「ユニーク」な産経の中にあって、さすがに、その本質を表現したものと感服している。その本質とは、権力の<提灯持ち・チンドン屋>である。じつに賑やかに太鼓を叩いている。この新聞の愛読者は、警察・自衛隊関係者が多いと元産経記者は述べているが、私見では、中小企業経営者もよく購読している。人間もここまで、落ちることができるということの証左として記録しておきたい。いや、まだまだ、落ちる。それは、これからだろう。そういう社会体制づくりを、安倍政権が急ピッチで進めているからだ。自公を支持しているひとびとは、目先の景気回復や経済成長といった、一部の人間を富ませるための「まやかしのスローガン」に騙されることなく、歴史的な責任を自覚してもらいたいものである。














わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「イスラム国」という名のならず者集団に空軍パイロットが焼き殺されたヨルダンは、さっそく報復爆撃を始め、指揮官を含む55人以上を殺戮(さつりく)した。

▼ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっているという。日本には憲法の制約があって云々(うんぬん)、と説明してもまず理解されぬだろう。

▼憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている。

▼だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか。助けにいった湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する。

▼仇(かたき)をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。第一、「日本にとっての悪夢の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にも出てこよう。

▼日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。

(産経抄 2/7/2015)





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