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出勤とオフコース

■金曜日、。比較的暖かい。暖冬。

10年ぶりに毎朝、出勤ということをやってみて、気がついたことがある。一つは、通勤電車で男の子のサラリーマンの髪の毛がたいてい立っていること。これが、若者とそれ以外を分ける目印らしい。二つ目は、自転車通勤の人が増えたこと。車の多い六本木通りを、颯爽と、スポーツサイクルで通勤している人を毎朝見かける。一番びっくりしたのは、自分が年を取ったことである。向こうから歩いてくる男性と目が合うと、目礼されるようになった。



時間が経ったと言えば、オフコースの「i」というベスト盤を家人と聴いているのだが、昔、軟弱の代名詞のように思っていたオフコースの歌が、すんなり、入ってくるのに驚いた。初めてオフコースを聴いたのは、高校生のときで、カーラジオから流れてきた「愛を止めないで」を聴いて、小田さんの声の美しさと楽曲の素晴らしさに心底感動した。ちょっと、曲の性格は違うけれど、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」が、初めて深夜ラジオから流れてきたときの感動にそれはよく似ていた。それから、なんとなくオフコースを聴いていたのだが、そのうち、自分の中で、オフコース=軟弱という同一性のレッテル? を貼ってしまって、卒業したつもりなっていたのだった。人生の挫折や哀歓をくぐりぬけて、少しは、心が柔らかくなったのだろうか。今は、すんなり、「それもあるな」と思える。
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ミシェル・マフェゾリとニコ・シュテール(2)

水曜日、。旧暦、8月20日。

2) ニコ・シュテールの講演「知識界と民主主義界―市民社会は知識の娘か」

ニコ・シュテールは1942年生まれ。カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学、アルバータ大学教授を経て、現在、ドイツツェペリン大学カール・マンハイム講座教授。エッセン高等文化研究センター・フェロー、『カナダ社会学雑誌』編集人。カール・マンハイムの世界的権威で、1999年以降は、とくに知識社会論を全面展開している。「知識社会」提唱の第一人者。主な著作に、『実践<知>―情報する社会のゆくえ―』、『カール・マンハイム―ポストモダンの社会思想家』(以上、御茶ノ水書房1996年刊)、『知識社会論』(1999)、『現代社会のもろさ―情報社会における知識と危険性』(2001)、『知識政治―化学・技術の帰結を支配するー』(2005)などがある。

ニコ・シュテールの講演は、あらかじめレジュメが用意され、それに沿って、講演は進んだ。ここでは、その講演要旨を簡単に紹介して、その後、疑問に思う点を記してみたい。

シュテールは、マックス・ホルクハイマーの「正義と自由は互いに支えあわない」という主張から始める。
・この主張は、民主主義と知識の関係にも当てはまるかどうか。
・知識は民主主義を進めるかどうか。
・知識の進歩は民主主義にとって、あるいは市民社会にとって、個人にとって重荷になるかどうか。

このように、幅広く3つの問題意識を述べた後に、3つのテーマについて述べた。

1) 専門知識と市民社会を融和させる
2) 市民社会と私的財としての知識を融和させる
3) 市民社会と知識格差を融和させる

この3つのテーマについてシュテールは詳論していくのだが、その内容をまとめる気力はない。ただ、感じたのは、この3つのテーマが現代社会の知識をめぐる問題点あるいは課題になっているということだった。結論部で、シュテールは、抽象的な形ではあるが、次のような主張を述べている。

The basic claim for the moment however is that democratization in modern societies as knowledge societies increasingly extend to the democratization and negotiation of knowledge claim.

知識社会である現代社会の民主主義化は、知識主張(knowledge claim)の民主主義化と調整に及ぶ。

この主張が、具体的にどういうことをイメージしているのか、よく分からない。分からないが、シュテールは、科学的知識・学問的知識と社会の間の関係は、通常思われているよりも柔軟だと考えている。つまり、専門知識と大衆との距離は認めつつも、その距離は固定されているわけではないと、考えている。知識と民主主義の進展について、楽観的というよりも市民社会の諸組織の可能性あるいは人間活動の可能性に、ある意味で、賭けているような印象を持った。

ぼくが一番疑問に思ったのは、マフェゾリもシュテールもポストモダンの認識を共有している。その特徴の一つに社会の多元化の指摘があるのだが、その裏に一元化作用が陰画のように進行している事態を見ていないという点だった。つまり、「市場化」である。シュテールの場合も、その議論に「市場化」の位置づけがない。知識は、専門家や科学者が無前提に生産し、社会に配分されるのではなく、市場が知識の内容や形式を規定する。たとえば、自動車メーカーの社員であれば、ドライビングの快適さと安全性という命題から種々の必要な知識が演繹される。シュテールがイメージしているような、個人が市民社会において、何らかの主張を行うための知識というモデルは、ギリシャ時代のポリスがモデルになっているように思う。そこには「市場化の進展」という観点が弱い。確かに、テーマ3)にあるような「知識格差」という知識の配分問題は、社会の市場化によって結果されるものであるが、知識の形式や内容に対する市場の意味や市場志向の知識という本質的な問題が探究されていないように感じるのである。

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ミシェル・マフェゾリとニコ・シュテール(1)

日曜日、。強風。旧暦、8月17日。

昨日は、「現代社会と情報」と題した国際シンポジウムがあった。ミシェル・マフェゾリ教授(ソルボンヌ大学)とニコ・シュテール教授(ツェペリン大学)が講演を行った。今、翻訳している『サイバープロテスト』の問題圏とも重なり、興味あるテーマなので、出かけてみた。

講演後、二人に質問したのだが、通訳を介しているせいもあり、議論がかみ合わない印象を持った。講演自体は、なかなか興味深いものだったが、その議論には、いくつか、重要な問題があるように感じた。そこで、二人の議論を整理して、どこかどう問題なのか、考えてみたい。

1) ミシェル・マフェゾリの講演「コミュニケーションとポストモダン性」

マフェゾリは、1944年生まれ。シュトラスブール大学を経て現在ソルボンヌ(パリ第5)大学教授。著書に『支配の論理』(1976)『全体的暴力』(1979)『現在の征服』(1979)『通常知』(1985)『部族の時代』(1988)『感覚的理性の称賛』(1996)『世界の熟視』(1996)『放浪主義』(1997)『悪魔の分け前』(2002)『ポストモダン・ノート―場が人を結びつける』(2003)。法政大学出版局から翻訳も出ている。

【主な論点】

・情報は、人間敵領域とどう関わるのか、それを問題にしたい。
・人間を動物と区別するのは「知る」という行為である。
・人間は神話や物語、概念などを通じて他者に何事かを語る存在である。
・今日は、フーコーのエピステーメに依拠して議論したい。
・知ると言ったとき、欧州には、二つの系譜がある。一つはテオリアで理論知である。もう一つがエピステーメで具体的な場面に適用して知ることである。
・知るという行為は組織と関連している。エピステーメは組織的に知ることでもある。
・それは真の知識・認識どうかは問題にしない。
・フーコーの分析は、ギリシャローマの知り方としてのエピステーメが都市のあり方にどう影響したのか、明らかにすることだった。
・フーコー以外にも、エピステーメに対するアプローチとしては、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で行っている。
・ヴェーバーは、我々が世界を知るときには、実在しないものによって現実を知るのだと述べている。
・ここには、イマジネール(想像力)によって社会を理解していくという考え方が認められる。
・こうした現実を理解するための想像力の系譜には、ロゴス(ヘラクレイトス)、イデア論(プラトン)、欧州中世、近代の科学技術がある。
・トーマス・クーンにパラダイムの考え方がある。
・そのパラダイムの代表的なものが18世紀19世紀の「進歩」という神話である。
・サン・シモンとオーギュスト・コントはキリスト教に代わる宗教を求めることで学問を始めたが、その中に「進歩」という考え方が現れた。
・進歩思想の社会への影響としては合理化がある。
・進歩思想は実在の合理化につながる。
・科学技術は脱魔術化を促した。
・脱魔術化社会では「技術のための技術」がスローガンになる。
・言いかえると、己自体が目的になる。ハイデッガーの言葉で言えば「世界の堕落」である。
・近代の(への)想像が破綻の方向にある。
・多元性が姿を顕しつつある。
・ソローキンが言う、「変貌」が生まれつつある。つまり、化学の比喩があてはまる。物質の組合せで新しいものが生まれる。
・近代の想像の多元性がポストモダンの特徴である。
・そこでは自然との関連が取り沙汰される。
・技術に対する関連が変化し、技術を基盤にした進歩神話を維持するのではなく、合力(技術力と古いものが結びついたもの)が現れる。
・この実例は、インターネットの発展により、ブログに見られるような部族化が進む。
・性的部族や音楽的部族、スポーツ的部族など、一つのテーマに沿ったコミュニティがウェブ上に形成されている。これは、ウェブに限らず、サッカーや世界選手権のように、リアルでもありえる。
・部族化というのは、もともと世界の基礎になっていたものに戻るということである。
・ここにポストモダンの逆説がある。つまり、古いものが新しい技術の中に再現されるということである。
・その中にはノマディズム(放浪性)の復活もある。
・近代の忘れたものが復活する。
・この例としては、近代的政治概念の民族国家や帝国概念の復活がある。また、部族化が地域的に問題化している。これらは政治的な再帰である。
・例2として、社会的再帰がある。19世紀の人間関係のモデルは人と人が理性的に結びつくものだったが、情報がウェブに氾濫する現在、人と人は感情的に結びついている。音楽やスポーツをめぐっての感情の発露。これには、近代の所産である技術が感情的つながりを基盤にした共同体を実現させている面がある。
・例の3として社会性の再帰がある。若者は、携帯やウェブを通じて、個人に力点があるのではなく関連性に力点がある。人と人の結びつきが強化されている。
・伝達手段を通じて遊びの側面が重視されている。これはポストモダン性である。
・新しい技術によって相互が結びつく空間が形成されている。記号やシンボルを通じて人々が結びつく新しい社会性の出現である。
・ポストモダニティのパラドクスとは、技術が新しい段階に入り、世界の再魔術化が生じることである。

■以上が、マフェゾリ教授の主要な論点だった。面白い論点もあるが、すでに常識になっている論点もある。マフェゾリ教授の議論の大きな特徴は、現状の追認だと思う。そこには、「批判」という営みがない。批判はその前提に「個人」の存在があり、批判を可能にするなんらかの「価値」が存在する。個人は、ポストモダニストの教授に言わせれば、「存在しないもの」であり、価値は、経験科学者を自認する教授には、非科学的で重要性は低いだろう。

だが、近代の産物である経験科学と近代を否定するポストモダンの哲学を組み合わせる姿勢は、実に「学者」的でシステムに対する毒がない。実に「都合の良い」先生なのである。

また、ネットによる部族化が起きる背景には、ベックが言う「個人化」がある。個人化が進んでいるからこそ、人と人が結びつこうとしているのだ。その結びつこうとする力を、たとえば、安倍晋三などの権力者が利用しようとしたらどうなるか。多国籍企業などの強力な競争力を持った企業権力が収益のために利用しようとしたらどうなるか。すでにそうした部族化は起きているではないか。つまり、部族化と一口に言っても、だれが部族化を進めているのか、明確にしなければならないだろう。関係性に目を奪われると、「操作性」という視点が見失われてしまうだろう。

さらに、関係性に目を奪われると、部族化が持つ「他者性の欠如」という「差異性」に対する感受性が喪失されるのではないか。古い共同体の復活は、「古い悪の復活」も伴なう。この点をどう実践的にクリアするのか、その議論からは見えてこないのである。

数年前、癌に痩せた体をジャンパーに包んで登壇し、グローバリゼーションを批判したピエール・ブルデューの姿がしきりに思い出されたのであった。
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