verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Cioranを読む(59)

■旧暦9月5日、土曜日、

(写真)広隆寺
昨日から、木犀の香が漂い始めた。今日は朝から、病院。コンビニにて、『カムイ外伝』を入手。コンビニ本で第一部全20話を収録。840円、安い。FBで漫画家の長谷さんより教えていただく。
特養というのは、認知症の方もいるので、自分の個室がわからなくなって、人の個室を次々に開けてゆく人も中にはいるらしい。昨夜、こうした事件が起きた。認知症の男性が間違って叔母の部屋に侵入、叔母がパニックになったという。今日は、落ち着いているらしいが、予想もつかないことが起きるものだと、ちょっと驚いている。特養に入れたら、安心、というものでもないようだ。割り切っていかないと、身がもたない。
☆

俗に清明桔梗と言われる陰陽五行を表す印。広隆寺本殿にて。

広隆寺は、渡来人、秦河勝が、聖徳太子から半跏思惟像を拝受して建立した京都最古の寺であるが、興味深い祭が伝わっている。その名も「牛祭」。得体の知れない神、摩陀羅神を祭る奇祭。摩陀羅神が赤鬼、青鬼の四天王を従えて、牛に乗って境内を巡回。設けられた祭壇で奇妙な祭文を読む。十月十二日の夜に行われる。なんと、虚子の歳時記に記載されていた。
金堂へかたむく月や牛祭 雅堂

本殿

同上

霊宝殿

霊宝殿前に群生した蓮

霊宝殿より苔の庭を見る

霊宝殿前に群生した蓮
☆
On peut tout imaginer, tout prédire, sauf jusqu'où onpeut déchoir. Cioran Aveux et Anathèmes p. 36
人間は、あらゆることを想像できる、予測もできる。自分がどこまで堕ちられるか、そのことだけは別にして。
■この断章を読んで、思い浮かんだ人物は、経団連会長の米倉氏である。思い浮かんだからしょうがない。醜い表情、醜い体形。蝦蟇を思わせる。おっと失礼>蝦蟇くん! 人間は外見ではないとよく言うが、ぼくは、人間こそ外見だと思う。外見に現れている美があるかどうか、だと思う。その美は、やはり悪からは遠いのだと思える。経団連会長、どう見ても美しくない。
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Cioranを読む(58)

■旧暦8月15日、月曜日、

(写真)秋の左手
午前中、入金や買物。午後から、仕事に入る。夕方遅くから、運動。気分良し。月を観て、しばし、息抜き。深蒸茶にうさぎ饅頭w。中秋の名月は、6年ぶりというから驚く。どれだけ、この季節、天候が悪かったのか。十三夜が好きなので、10月9日も楽しみにしている。
☆
Être appelé déicide, c'est l'insulte la plus flatteuse quéon puisse adresser à un individu ou à un peuple.
神殺し―これこそ、個人にせよ、民族にせよ、浴びせられた侮辱の中で、もっとも、その自尊心をくすぐるものである。 Cioran Aveux et Anathèmes p. 42
■déicide(神殺し、形容詞、名詞)。フランス語で一語。日本語で、二語。英語では、deicideでやはり一語。ちなみに、ドイツ語では、der Gottesmöder(神を殺した人)あるいは der Gottesmord(神殺し)で、日本語と同じように、二語からなる合成語。ラテン系の言葉では、一語で表現されている点が面白いと思った。民族的には、当然、ユダヤ民族を指すことになる。
現在はどうか、わからないけれど、フランス語圏、英語圏で、一語でdéicide/deicideが残っているということは、それだけ、日常生活の中で、この言葉を使用した言語ゲームが頻繁にあったということだろう。シオランの言うように、罵詈雑言のたぐいなのだから、ますます、興味深い。二語になると、やはり、迫力がなくなる。「この神殺しめ! Gottesmord!」
シオランの感覚では、この言葉は、自尊心をくすぐる、ということだが、実際の言語ゲームでは、かなり辛辣に響くはずである。今でも、フランスでは、無神論者であることを公にするには勇気がいると聞く。それだけで、噂の種になるらしい。
個人に対して、そうなのだから、ユダヤ民族に対して、この言葉を使えば、相当な侮辱になるのではないだろうか。
ぼくは、このシオランの断章をとても面白いと思った。社会で、「侮辱」「罵詈雑言」「悪態」などといった否定的な価値づけがなされているものの中にこそ、新しい価値の萌芽があるように思えるからだ。シオランは、déicideの使い方を逆手に取っている。ここには、やはり、ニーチェの声が響いているように思う。ドイツで、déicideが一語で表現されなかった社会的背景あるいは論理は、なかなか興味深いが、今は、考える材料がなさすぎる。
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Cioranを読む(57)

■旧暦8月11日、木曜日、

(写真)無題
朝方は、本当に風も涼しくすごしやすいが、11時を境に急激に気温と湿度が上昇。11時まで、ブルバキを読んで、その後、郵便局や市役所などへ行く。午後から、仕事に入る。
マスコミは報道していないが(これもnews valueの問題だけでなく、資本によるメディアコントロールを考えざるを得ないが、逆に、運動の側も、どう、マスコミに報道させるかの戦略が必要な時代だと思う)、9月は、9.3柏デモを皮切りに、9.4我孫子デモ、9.11千葉デモと千葉県内だけでも複数の反原発デモがあり、9.11は、3.11から半年後ということで、全国各地で1000万人動員をめざすデモが予定されている。先日、参加したデモでも、参加者の幅は広く、職業もまちまちで、広い層が原発問題に危機感を持っていることを伺わせる。デモの途中から、小さい子ども連れのお母さんやご夫婦が飛び入り参加したりと、かなり自由な雰囲気で行われていた。9.19には、明治公園で、大江健三郎、坂本龍一両氏が参加するデモが予定されている。先日、スイスからメールをもらったら、スイスでも、ベルンの連邦広場で9.11と9.17に反原発デモがあるということだった。
世界中で、もっと、怒ればいいと思う。四季を台無しにされ、食を始めとした生活環境を台無しにされ、海を汚染され、山川森を汚染され、子どもたちの命を危険に曝し、今後生まれてくる未生の生命を汚染され...。これで、怒らないのは、人間としてどこか歪んでいると言い切ってしまっていいのではなかろうか。世界中で、日米政府・経産省と東電、東芝、日立、GEなどに、圧力をかけた方がいいと思う。
マルクスは面白いことを言っている「後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。」この行動原理が現れたのが、まさに原発事故だったのだろう。野田首相が、原発の現場作業員に深ぶかと頭を下げたとニュースは伝えるが、この行為に残っている倫理的な契機は、システムとして、事前に設計・実現されていなければならなかったはずである。「後はどうにでもなれ」まさに自民党的・アメリカ的ではないか。
☆
N'aimer que la pensée indéfinie qui n'arrive pas au mot et la pensée instantanée qui ne vit que par le mot. La divagation et la boutade. Cioran Aveux et Anathèmes p. 45
言葉にならない漠然とした想念か、言葉でしか表せない一瞬の思考か。そのどちらかしか好きになれない。うわごとか警句かだ。
■非常に面白い。創作のプロセスを思わせるようなところがあって好きである。la pensée instantanée qui ne vit que par le mot(言葉でしか表せない一瞬の思考)はベンヤミンを思わせる。たぶん、これは、これまでも、価値を置かれてきた思考だろうが、最初のla pensée indéfinie qui n'arrive pas au mot=La divagation(言葉にならない漠然とした想念=うわごと)に価値を置いた人は、あまりいないんじゃないだろうか。アルトーやバタイユなら、賛成するかもしれない。
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Cioranを読む(56)

■旧暦5月21日、水曜日、

(写真)無題
今日は蒸し暑い日だった。
諸星大二郎の『諸怪志異』阿鬼篇、読了。面白い。幻想系のコミックや小説がいい気分転換になるのは、重たい現実を差異化してくれるからだろう。古今東西の不思議な話をぼちぼち集めてみたいと思っている。
内部被曝を回避するために。静岡産の深蒸茶はやめにして、九州からネットで取り寄せたのだが、二煎目も茶葉の色が変わらずおいしいので、吃驚している。今まで飲んでいた静岡茶というのは、なんだったんだろうと思えてくる。
群馬大学の早川由紀夫教授によるホットスポットの汚染地図。欺瞞の全体構造に改めて怒りが湧いてくる。マスメディアなどを通じて、これだけ、資本のイデオロギーに汚染されていれば、民主主義が機能しなくなるのも当然だと思う。
☆
Se retirer indéfini,ent en soi-même, comme Dieu après les six jours. Imitons-le, sur ce point tout au moins. Cioran Aveux et Anathèmes p. 56
どこまでも自分の中へ引き籠ること。ちょうど、あの創造の6日間のあとの神のように。少なくとも、この点については、われわれは、神のひそみに倣ってもいい。
■元祖引き籠りと言っていいのかもしれない。引き籠りは、ネガティブに語られることが多いが、無意識のプロテストという面もあるし、エネルギーの充填という面もある。引き籠っても生活が成り立つ条件があれば、の話だが。ただ、神のひそみに倣うとすれば、6日間は活動するわけである。その活動が、どう考えても善い活動とは思えないのが、現代だろう。自然を破壊し弱者を搾取する。原発事故を踏まえると、人間がくだらない活動をするくらいなら、引き籠った方がいいのではないかとも言いたくなるが、われわれは身体を持っている以上、労働(自然との相互作用と社会関係の構築)を避けるわけにはいかない。したがって、権力の発生を回避することはできない。だからこそ、善い労働のあり方や善い権力行使のあり方を考えるべきなのだろう。倫理学にアクチャリティがあるのは、この局面なのだろう。
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Cioranを読む(55)

■旧暦5月10日、土曜日、

(写真)無題
朝から蒸し暑い。ウェブチェックしてから、上野へ写楽展を観に行く。歌舞伎のブロマイドから始まっているが、表情豊かな大首絵や芝居の動きを表す全身の絵を観ていると、現代のコミックとの類縁性を感じる。意外だったのは、浮世絵に使われた色彩が植物性のものが多く、褪色しやすい点で、今に残っている色と当時は、鮮やかさにずいぶん、差があったらしい。写楽の絵は、江戸の庶民に受けるかどうかよりも、役者の存在に迫っていくような深みがあり、芸術家肌だったことがうかがわれる。
『七人のシェイクスピア』4巻読了。非常に面白かった。シェイクスピアが少年の頃のイングランドの宗教状況が具体的によく見えた。カトリック対プロテスタントの宗教対立が、日常では、まるで、日本の隠れキリシタンのような状況を作っている。大衆レベルでは、カトリックに親近感を持つものが多いが、国の方針がプロテスタントでカトリックを弾圧するという状況では、隠れキリシタンになっていくのだろう。シェイクスピアも、そうしたカトリック親派の一人だったという設定。
☆
Quand on est sorti du cercle d'erreurs et d'illusions à lintérieur duquel se déroulent les actes, prendre position est une qusi-impossibilité. Il faut un minimum de niaiserie por tout, pour affirmer et même pou nier. Cioran Avuex et Anathèmes p. 35
行為というものは、過ちと思い違いの中で、繰り広げられるものだが、いったん、その圏域から離脱してしまうと、態度決定などはほとんど不可能になる。どんなことであれ、それを肯定するには、いや否定するのでさえ、最小限の愚鈍さが必要になる。
■シオランの隠者志向をよく表していると思う。たとえば、妻に隣の部屋にある林檎を取ってきてくれと言われて、本当にそこに林檎があるのか、と疑って態度決定ができないとすれば、夫婦の間になにか問題があるか、その人に精神的な問題がある場合だろう。シオランの言う「un minimum de niaiserie」(最小限の愚鈍さ)とは、実は、「信」の構造と関わっている。行為のベースには、それ以上疑うと社会関係が成立しない「信」、言いかえればイデオロギーのベースがある。「un minimum de niaiserie」とは、生活の全体を構成する条件であり、隠者でさえ、免れ得ないものなのである。隠者とて、隠者の生活があるからだ。ただ、一時的に、行為の圏域を脱するというのは、ベンヤミンの「決定の保留」と同じように、ある東洋的な賢さを付与することになるだろう。一時的に、生活の全体を俯瞰することになるからだ。
☆
Sound and Vision
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Cioranを読む(54)

■旧暦5月9日、金曜日、

(写真)無題
blog、twitter、Facebookとwebをやりすぎると、脳が興奮して、眠れなくなる。夜は、パソコンを切ってしまうことにした。その時間、好きな本を読むことにしたら、だいぶ、調子がいい。
☆
Ce qui n'est pas déchirant est superflu, en musique tou au moins. Cioran Avuex et Anathèmes p.43
胸が引き裂かれるようなもの以外は無意味だ。少なくとも、音楽の場合はそうだ。
■この断章は、キュアのロバート・スミスの「痛み以外にリアリティはない」という言葉をどうしても思い出す。déchirant(悲痛さ)は、しかし、いつも直接的に表現されるわけではない。蕪村のように洗練されている場合もあるし、チェーホフのように、日常の延長線上にある場合もある。人の心に深く届くのは、むしろ、直接的に表現されていない悲痛さだと思うがどうだろうか。音楽の場合は、直接的でも間接的でも、届くような気がする。
☆
Sound and Vision
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Cioranを読む(53)

■5月7日、水曜日、

(写真)無題
疲れていたわけではないのだが、起きたら、12時だった。即、仕事に入る。夏の楽しみの一つは、冷奴である。これで冷酒をやるのが楽しみな季節になってきた。
☆
En dehors de la musique, tout est mensonge, même la solitude, même l'extase. Elle est justement l'une et l'autre en mieux. Cioran Aveux et Anathèmes p. 37
音楽を別にすれば、すべては偽りである。孤独でさえ、恍惚でさえ。音楽こそ、まさに孤独であり恍惚である。ただ、その深さと高さがまるで違う。
■シオランの音楽観が出ていて興味深い。音楽を聴いていると、そんな気になるときもあるが、シオランが念頭に置いているのは、バッハやブラームスなどのクラシックで、ロックやジャズ、民族音楽などは入っていないように思う。しかし、たとえば、このマイルスのジャズを聴くと、軽みと孤独が一体になった、深さと高さを感じるのは、ぼくだけではないだろう。音楽の偉大さは、言葉を軽く超えている。
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Sound and Vision
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Cioranを読む(52)

■旧暦5月3日、土曜日、

(写真)植田
朝から、病院へ。午後、昼寝。ゴミ捨てなど。夕方、買い物。久しぶりに駅前の新刊書店に入ったら、ずいぶん、模様替えしていて、気が付いたら、2時間経っていた。『ガウスの数論』を購う。数学そのものは、できないのに、数学の歴史や数学基礎論に関心が向かうといった奇妙なことになっている。
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Pour entrevoir l'essentiel, il ne faut exercer qucun métier. Rester tout la journée allongé, et gémir... Cioran Aveux et Anathèmes p.35
本質的なものを垣間見たければ、どんな職業についてもいけない。一日中、ベッドに横たわって、呻いたり苦しんだりすることだ...。
■思い当たる節はある。集団が思想を規定するから、なにかの集団に所属すれば、それだけ、自由な心を維持するのは難しくなる。他方で、集団に所属するから、さまざまな能力が鍛えられる面もある。だが、組織にいては、この二つは同時に実現できない、というのが、10年、組織人をやってみた結論だった。
☆
Sound and Vision
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Cioranを読む(51)

■旧暦4月27日、日曜日、

(写真)ある猫の後ろ姿
台風2号の大雨で引きこもり状態。掃除して、あとは、『近世数学史談』(高木貞治著)を読む。この中で、Gauss(1777-1855)は、数学の研究には、切り刻まれざる時間が必要だと述べている。1807年以降、Gaussのおかれた立場は、ゲッチンゲン大学教授兼天文台長。一見、恵まれた立場に見えるが、まとまった理論的な仕事をする時間が取れない生活だったらしい。天文台長と言っても、設備も、スタッフも、コンピューターもなく、観測から計算まで天文台長が一人でするのである。さらに、大学の講義がある。「虚空に漂う精霊の影を捉えようとして頭がいっぱいになっているさなかに、講義の時間が来る。飛び上がるようにして、まるで違った世界へ心を向け変えなければならない。その苦しさは言語に絶する」と述べている。しかも、薄給である。金にならない仕事を、家族や親類は理解しない。狂人だとまで言われる始末。Gaussが残した楕円関数の計算の中に、こんな走り書きが残されている。
Der Tod ist mir lieber als ein solches Leben. 「こんな生活なら死んだ方がましだ」 Gaussにしてこれか! と思う。
現代では、「切り刻まれざる時間」を確保するのは、特別な場合をのぞいて、ほとんど、不可能なんじゃないか。長い散文的な詩よりも、俳句の方が現代的だと、ぼくは思っているが、一つは、断片を表現しながら、全体に触れるからだし、断片的な時間を逆説的に活せる表現の一つとも思えるからだ。この意味で、CioranやWittgensteinの断章形式に、とても興味を惹かれる。
☆
Le renoncement est la seule variété d'action qui ne soit pas avilissante. Cioran Aveux et Anathèmes p.44
断念も行為のうちだが、唯一、われわれの品性を卑しくしない行為である。
■石原吉郎の「断念」の思想を思い出させる。断念としたLe renoncementは、「禁欲」でもあり、「放棄」でもある。この逆は、どこか、「欲望」と関わる面がある。欲望は、行為や活動、労働と切り離せない。Le renoncementが品性を卑しくないのは、どこかに、宗教性を帯びるからだろう。宗教と労働、断念と欲望。面白いテーマだと思う。
☆
Sound and Vision
※京都が懐かしくなった。変わらない街で青春時代を過ごせたのは、幸運だったのかもしれない。
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Cioranを読む(50)

■旧暦4月24日、木曜日、

(写真)無題
知る人ぞ知るリコリスを使ったキャンディー、カッチェンにはまっている。家人らは、ほとんど受けつけないが(たいていの人は受けつけないかもしれない)、日本の食にはない独特の風味があり気に入っているのである。
哲学塾で詩集『耳の眠り』が好調な売れ行きを示したので、気を良くしている。月例で朗読会を開けないか、考えているのだが、まだ、手さぐりの状態。
寝る前に聊斎志異を読んでいるのだが、科挙受験と狐にまつわる怪奇談が、断然多い。狸は出てこない。狐が化けて人間の妻になる話にさまざまなヴァージョンが加わる。人間の生活に近いところに狐がいたのだろう。日本の狐の話も、おおよそ、聊斎志異あたりが源流ではなかろうか。狸がペアで出てくるのは日本オリジナルか。
☆
Il est possible à la rigueur d'imaginer Dieu parlant français. Jamais le Christ. Ses paroles ne passent pas dans une langue si mal à l'aise dans la naïveté ou le sublime. Cioran Aveux et Anathèmes p.46
フランスを語をしゃべる神というのはどうにか想像はできる。キリストになると全然だめだ。キリストの言葉は、素朴さや崇高さにまるでなじまないような言語で語れたはずがないのだ。
■シオランのフランス語観が出ていて興味深い。シオランはルーマニアのトランシルヴァニア地方の出身なので、ドイツ語ネイティブだった。フランス留学後に、表現言語をフランス語に意識的に替えている。その言語が、素朴さや崇高さがないと言っているのだから、フランス語ネイティブよりも、外から感じているだけに、本当らしく響く。
もう一つは、言語の時間の問題で、キリストは古代ヘブライ語で話していたはずである。古代ヘブライ語は時制による動詞の変化がない。聖書が古代ギリシャ語に翻訳される過程で、時制が導入された。古代ヘブライ語では、過去形がない。現在形だけで書かれ語られる、これは、何を意味するのだろうか。事態が事実として固定されていない、過去が現在と同時に存在する、ということが言えるが、ぼくは、現在形という時間のもつ「習慣性」と「真理性」という側面に注目してみたい。つまり、「神は天地を創造する」「こうして光がある」「ヤコブは、アブラハムはこういう」と言った表現は、それが繰り返し行われることを意味する。永劫回帰のように事態が繰り返される側面がある。もう一つは、それが無条件に真理であることを表現している。ちょうど、近代的な真理「The earth is round.」と同じように。
※参考「Junction 78」の柴田さんのエッセイ
シオランが、フランス語には、素朴さや崇高さがないと言ったとき、古代ヘブライ語にあった現在性が、時制によって、変容したことを意味するのではなかろうか。過去形は、記録性と関連している。記録とは、すでに終わったことの謂いであり、現在との生き生きした関連性は失われる。もちろん、フランス語には、日本語にないような繊細な時間感覚はあるが、こと聖書に限って言えば、現在と関連した時制でキリストの言葉が語られているとは思えない。キリストの言行は、信ずべき一回限りの過去の出来事であり、その意味で、個性的である。一方、古代ヘブライ語で語られたキリストの言葉は、普遍性と同一性を帯びていたのではなかろうか。これは、「歴史」というものが、言語構造に大きく規定されるということでもあるだろう。面白いのは、科学の言語が、古代ヘブライ語に近いことで、科学的真理も宗教的真理も哲学的真理も、時間からの超越を志向する点では共通している。「真理」という概念は、時間に規定された文法構造の中で、歴史と拮抗・対立しながら出現したのかもしれない。真理と神の概念は、当然関連している。では、時制がない言語の表現する真理や神とは何なのだろうか。おそらく、今ほど、「超越的」ではなかったのではなかろうか。
☆
Sound and Vision
Prokofiev Toccata in D minor Op.11
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