verse, prose, and translation
Delfini Workshop
西行全歌集ノート(2)
2014-01-10 / 短歌

1月8日
山里は霞みわたれるけしきにて空にや春の立つを知るらん
西行 山家集上 春
※ 格助詞「にて」と現在推量の助動詞「らん」に注目したい。「にて」は「~という状態で」、あるいは「~だから」、山里に一面の霞がかかっている状態を言っている。これを踏まえて、空に春が来たことを知るだろう、というわけだが、違和感が残るのは、「自分」が知るだろうという言い回しは不自然であること。(人の)知るらん、と解釈すれば、自然に流れる。古語辞典によれば、「らん」は時代を下ると「かな」と同じように詠嘆を表すようになったとある。用例は、謡から引かれているので、室町くらいを言うのだろう。ここも、「かな」と同じように受け取れれば、西行自身が「春が空に来ているのがわかるなぁ」と言った独白になるが、平安から鎌倉にかけての時代にも、この用例がすでにあったかどうか、わからない。いずれにしても、前段と後段は「論理的に」接続している点が注目される。
1月9日
霞まずは何をか春と思はましまだ雪消えぬみ吉野の山
西行 山家集 上 春
※ この歌はとてもいいなと思った。西行の歌を読んでいると、自然が非常に近い。春なら、「霞」がほとんど出てくる。自然の中に人間が存在する。現代の首都圏に生活していると、人間の中に自然が細々としてあるような感覚になる。その自然も、西行の時代とは大きく変容している。そして、台風や竜巻や大地震や津波のように、外部の自然が、突如、大きな脅威となって現れる。この点は、西行の時代と変わらないはずである。だが、自然との「社会的距離」が西行の時代は近く、現代では、非常に離れているように感じられる。それだけに、自然への愛情も、倫理も、畏敬も、薄くなっていると思われる。
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西行全歌集ノート(1)
2014-01-08 / 短歌

2014年1月4日
年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢
西行 山家集上
# 西行は好きで、古典の中では、比較的よく読んだ方だと思うが、今読むとどういう感想が湧くか、試してみたい。まず、感じるのは、「煩い」ということで、それは俳句よりも言葉が多いからではなく、季節を表す言葉が一首の中に多すぎるから。つぎに、面白いのは、初夢は元旦の夜に見る夢ではなく、西行(1118-1190)の時代には、大晦日から元旦にかけて見る夢だったこと。正月元旦の夜に見る夢を初夢と見なすようになったのは、いつからか、興味を惹かれる。また、「思ひ寝」という習慣が面白い。何かあるいは誰かを思いながら寝ることである。夢の中で会いたいということだろう。現実では願望が満たされない事情があるのだろう。夢というものが、この時代、リアルで特別なものだったことがわかる。
2014年1月4日
山の端の霞むけしきにしるきかな今朝よりやさは春のあけぼの
西行 山家集上 春
# 「山の端」と「山の際」はどう違うか、という問題が、高校受験レベルの古文には出る。トリビアルな問題だが、知らなかった。あまり意識していなかったというべきか。山の端は、稜線を中心にして山側、山際は、稜線を中心にして空側。この言葉の使い分けは現代にはない。その意味で繊細な使い分けと思う。「しるき」は「著き」で、著しいこと、際立っていること、目立つこと。
詩人のSさんは、もともと、歌人の出身。日本の歌壇の閉鎖性と差別体質に嫌気がさして詩に転向したと聞いた。あるとき、Sさんと話していて、短歌の話になったとき、俳句も短歌も韻文で散文とは質的に異なるという話をしたとき、Sさんは、短歌は散文だと言った。その言葉が記憶に残って、それ以降、短歌を注意深く見ているのだが、この西行の歌は散文の構造をしている。「さは」は、「それでは」、英語の then に相当し、理由と結果を結んでいる。説明的とも言える。俳句が破壊する一番のものである。
2014年1月4日
あさごとのあさ井の水に年くれて我がよのほどのくまれぬるかな
権律師 隆聖 新古今和歌集
# 松戸へ帰還。帰りの電車で、西行全歌集の解説を読んでいて、ふたつほど、面白いことがわかった。一つは、西行は出家前に男女ふたりの子をなしているらしいこと。二つは、西行は真言宗に帰依していたこと。解説はあまり読まないので、今回、じっくり読んでみて、新鮮だった。上記に掲げた和歌が、その子隆聖の作である。出家した僧で、権律師(僧の官位の一つ)。女の子の方も出家したらしく、鴨長明の発心集第六に、その記事がある。
ぼくは、信仰は持たないが、実家がたまたま真言宗なので、小さい頃から、空海には興味があった。高野山へ行ったときに、西行の墓があったので、関連はあるのだろうとは思っていたが、やはり、真言宗に帰依した人だった。四国各地の弘法大師の遺跡を巡礼している。歌はもともと好きだったが、なんとなく、親近感を持った。
2014年1月6日
春立つと思ひもあへぬ朝出にいつしか霞む音羽山哉
西行 山家集上 春
※ この歌もくどく感じる。春を表す言葉が三つも入っている。ダメ押しという感じがする。音羽山には、仕掛けがある。この山は都の東方にあり、東は春の方位である。季節に、方位と色を割り振る考え方は、中国の四神から来ているらしい。春・緑(青)・東→青龍、夏・赤(朱)・南→朱雀、秋・白・西→白虎、冬・黒(玄)・北→玄武。なかなか興味深い。それにしても、こうくどく、和歌を感じさせてしまう俳句の「季語」とはいったいなんだろうと思えてくる。
2014年1月7日
門ごとに立つる小松にかざられて宿てふ宿に春は来にけり
西行 山家集上 春
※ 「門ごとに立てる小松」とは、門松のこと。平安後期からの風習らしい。西行が歌っているのは、この風習ができてまだ間もない時期になる。注目したいのは、「宿てふ宿」という措辞。「てふ」は俳句でもおなじみだが、「ちょう」と発音する。宿という宿に、つまり、どの家にも。なにに、注目したいかと言えば、「宿」という言葉である。これは、人が生活する家という意味だが、現在では、家を宿とは言わない。「今日の宿は○○だ」といったように、どこかに旅に出て、宿泊する場所を指すのが現代的な「宿」の使用法だと思う。つまり、一時、短い時間をすごす場所、しかも、衣食住の中の睡眠に主眼を置いた言い回しだと思える。宿を家の意味で用いているのは、すでに万葉集に、その用法がある「君待つとわが恋ひをればわがやどの簾動かし秋の風吹く」(額田王 万葉集)。
日本国語大辞典第二版を調べてみると、宿の語源は「屋の処(と)、屋の戸(実際、宿には戸口の意味もある)、屋の外」といった言葉が挙げられている。では、屋とは何か? これも、日本国語大辞典によると、「建造物の主要部分としての屋根を指す」。つまり、家・宿のイメージの原型は、雨露をしのぐ、「屋根」にあるようなのだ。この点に注目して、西行のこの歌を再度読んでみると、視線は、家の屋根に向い、屋根と屋根が重なっている情景が見えてくる。茅葺なのか、板葺なのかわからないが、いずれにしても、太古から、天と地の間で仕切りを作り、そこが人間の住処だったということになろうか。
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与謝野晶子の歌(2)
2011-02-06 / 短歌

■旧暦1月4日、日曜日、

(写真)Bern
ここ数日、寝る前に漱石の『永日小品』をよく読んでいる。話の筋らしい筋が、はっきりなく、随筆と短編の間のような非常に短い作品群で、俳句をある程度、学んだあとに、この作品を読み返してみると、その味わいの深さに打たれるものがある。人間を50年もやっていると、いろいろなことがあるが、いろんなことを抜けて皺々になった心に、丸ごと沁みてくる。ちなみに、漱石は49歳で亡くなっている。文学に「天才」という観念はそぐわないのかもしれない。あうとすれば、「狂気」だろうか…。
☆
午後から、Bコースをウォーキング。毎回、晶子の歌碑を読み返すのだが、その度に、違った歌がいいように思えてくるから不思議である。
ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る
くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし
ひなげしは芝居の席につく如く楽しみて散り土に身を置く
六月や長十郎と云う梨の並木に立ちて明きみちかな
隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな
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与謝野晶子の歌
2011-01-29 / 短歌

■旧暦12月26日、土曜日、

(写真)in Basel
朝、叔母の確認、腰痛のため、痛み止めを服用してもらう。深蒸を飲みながら新聞を読み、ゆっくりする。お茶を飲みすぎて、歯に渋がつくようになったw。午後、コースBをウォーキング。今まで気がつかなかったが、与謝野晶子の小さな歌碑がいくつも立っていて、「ひなげしの径」と命名されている。大正時代に二回ほど、千葉大の園芸学部を訪れたらしい。歌集にそのときの歌がまとまって残っているようだ。与謝野晶子と言えば、日露戦争のときの反戦歌が思い出されるが、第一次大戦、二次大戦では、戦争を肯定し賛美する歌を書いている。この変化はなかなか興味深い。1912年に、鉄幹の後を追って、パリにわたるが、ちょうど、ミュンヘンではカンディンスキーやマルクの「青騎士」が活動を始めた時期にあたる。晶子も、ドイツに立ち寄っているので、もしかしたら、街でポスターでも見たかもしれない。
短歌は、俳句ほど好きじゃないのだが、晶子の歌碑でいいなと思うものがいくつかあった。
天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花
時は午路の上には日かげちり畑の上にはひなげしのちる
浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ
ウェブで調べていたら、与謝野馨氏の祖父母を語る動画が出てきた。政治姿勢に一貫性がないのは、晶子の反戦姿勢とよく似ているが、この話は、なかなか、面白かった。30分強あるので、時間のある方はどうぞ。>>>ここから
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韻文的古典を読む:万葉集(2)
2009-02-23 / 短歌


(写真)パンジー
年寄りはわがままである。よく聞く言葉であるが、たいてい、言っているのは、介護したり、めんどうをみたりしている若い人である。ぼくも、この言葉は、ある意味でよくわかる。性格的な傾向性や生理的な好き嫌いは、年齢に関係なくだれにでもある。その意味では、だれでもわがままなのだが、日常生活に人の手を借りざるを得なくなると、介護の論理や医療の論理と、性格的な傾向がぶつかることがある。このとき、老人は「わがままになる」。しかしながら、自分勝手や自己中心的というのとはちょっと違う性格的な傾向性は、変えるのがかなり難しい。人が生きていく上で、居心地の良さを感じるのは、性格的な傾向性が実現できているときであり、他者がそれを受け入れてくれているときである。友だちとは、そもそもそういうものだろう。インターネットなどのテクノロジーによって、介護を必要とする人々が、医療・介護の論理と性格的な傾向性を両立することはできないか。叔母の介護に関わるようになって、そんなことをしきりに思う。時間差があるだけで、年を取らない人はいないのだ。
◇
うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば (万葉集巻一 82)長田王
■「うらさぶる」は心淋しい。「さまねし」は「さ・あまねし」で隅々まで行き渡っている様子。心寂しさで一杯。しぐれに対する心の反応を歌っていて惹かれた。俳諧や俳句の「しぐれと」は、感じ方が違う。この歌では、しぐれと心情が一体的に詠まれているが、俳諧・俳句では、心情とは切り離されて、しぐれの趣に重点があるように思う。山頭火のうしろすがたのしぐれてゆくかは、万葉集のこの歌に近い「しぐれの」使い方ではないか。
◇
Sound and Vision
Lunch Poems - Ilya Kaminsky(embedding disabled by request)
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韻文的古典を読む:万葉集(1)
2009-02-04 / 短歌


(写真)急ぐ
春か。梅も咲いたし、日も延びた。加山又造展を観る。伝統との関わり方について、いろいろ考えるところあり。加山の絵は、装飾性と様式美が先行するために、画面に動きがない。笑いがない。日本画の伝統に学ぶと言っても、たとえば、俳画などに注目していたら、ずいぶん、違ったものになったのではないだろうか(俳画は絵ではない?)。しかし、絵は文化や歴史のコアを伝えてくれるので、かなり気分転換になる。欧米系の人たちも多く来ていましたな。
◇
韻文的古典をマイペースで読んでいこうと思う。一応、宮廷系と民衆系の二つに分けて同時並行的に読みたいと思っている。宮廷系の中の民衆性、民衆系の中の宮廷性にも目配りしつつ、「天皇」についても、ぼちぼち、考えられれば。
巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を(万葉集巻第一)
坂門人足
■なんだこれは! というのが第一印象。何回か読むと音の調子の良さに惹かれてきた。だが、よくわからない歌である。そのわからなさは、詞書と「偲ふ」という動詞の使い方に起因する。
「大宝元年辛丑の秋九月、太上天皇、紀伊国に幸(いでま)せる時の歌」これが詞書で、ここから、この歌が詠まれたのが、秋九月であることがわかる。つまり、この歌にある「椿」は眼前には存在しない。存在しないものを見つつ「偲ふ」とはどういうことか。「偲ふ」とは、日本古典文学全集(1994年 小学館)の解説によれば、「ある物を媒介として眼前にないものを慕わしく思い浮かべる」の意。この場合、歌に即せば、ある物とは「椿」であり、思い浮かべる対象は「巨勢の春野」である。このとき、「椿」は外界に存在しないと、それを媒介に、春野を思い浮かべることはできないが、そもそも、椿は春野の植物なので、論理的に破綻している。心の中の椿を媒介に、春野の花々を思い浮かべようという趣旨なのだろうか。次の歌を見てみよう。
河上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は(万葉集巻第一)
春日蔵首老
この歌は、すんなり、眼前の椿を詠んでいることがわかる。「つらつらに」は熟視するさま。
◇
Sound and Vision
Lunch Poems - Robin Blaser
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