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西行全歌集ノート(22)




年を経ておなじ梢に匂へども花こそ人に飽かれざりけれ

西行 山家集 上 春

※ ここにも、「人」が出てくるが、貴族と僧侶だろう。市井の人々は、まだ「人」として登場しない。宮廷周辺の美意識やライフスタイルが、その後、市井の人々まで浸透してゆくが、その宮廷周辺の美意識やライフスタイルそのものの中に、労働の谺を聞く耳はとても大切だと思う。ヘンな現人神とか、お貴族様のような、生まれながらに特別な存在がいるかのように錯覚してしまわないためにも。花に憑依し、花を模倣するミメーシスは、人間と自然の原初的な相互作用(すなわち労働)がベースになっている。キリスト教文明の創造神の「創造」も、古事記の「国造り」も、人間労働を原型にして作られた神話だと考えるべきだろう。


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西行全歌集ノート(21)




2月6日

花見にとむれつゝ人の来るのみぞあたらさくらの咎にはありける

西行 山家集 上 春

※ これには詞書があって「閑(しづ)かならんと思ひける頃、花見に人々まうで来りければ」

ここに出てくる「人々」や「人」とは誰か。それが気になる。市井の人々なのか、貴族・僧侶といった和歌文化の担い手なのか。西行の時代には、どんな人々が花見をしていたのだろうか。この歌の後には、

花も散り人も来ざらん折はまた山のかひにてのどかなるべし

※ 「かひ」は峡と甲斐の掛け言葉。ここにも、「人」が登場する。この人々は、「むれて」つまり集団で花見に来る。貴族・僧侶などの支配階級が、お伴を引き連れて、花見に来たのではないかと思う。市井の人々の花見は、江戸時代になって、ある程度、生活に余裕が出来てからだろう。そう言えば、クリーブランド美術館展の絵画にも、市井の人々は、ほとんど出てこなかった(鎌倉、室町、安土桃山、すこし江戸・明治)。和歌の美意識と歌枕が重要な絵画のモチーフになっていた。


2月7日

花の下にて月を見てよみける

雲にまがふ花の下にてながむればおぼろに月は見ゆるなりけり

西行 山家集 上 春

※ 日本の美の文法というのがあって、雪月花に代表され、花鳥風月に代表される。それは、そうなる理由があったと思うが、そういう美意識を和歌が形成してきた、言いかえると、貴族と僧侶が形成してきた。その美の文法を破壊しようとした俳諧の革命性というものが、今では見えにくくなっているように思う。伝統も革命も混在している。その二項が必ずしも対立しないで、相互に浸透したり、入れ替わったりしている。西行のこの歌も、一つの典型的な美の文法に則っている。


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西行全歌集ノート(20)




風越(かざこし)の峰の続きに咲く花はいつ盛りともなくや散りなん

西行 山家集 上 春

※ 風越の峰=信濃の風越山。この歌のしんとして人気のない情景に惹かれて、風越山が気になって調べてみた。

すると、歌枕になっていることがわかった。だが、「吹き乱る風越山の桜花麓の雲に色やまがはん」(夫木和歌抄)も、「風越の峰の上にて見るときは雲は麓のものにぞありける」(詞華和歌集)も、西行の歌より後の時代に成立している。つまり、歌枕としては、西行の歌がパイオニアのようだなのだ。律令制度の地方官の貴族から、風越山の花のことを聞いたか、西行自ら旅した見聞がベースなのかもしれない。最後の「なん」は「完了(確述)の助動詞「ぬ」の未然形+推量の助動詞「む」」で、「きっと散ってしまっているだろう」と強い推量を表わしている。ここから考えると、西行自身に、確かな根拠があるように思える。実際に見たことがあるか、花の季節ではなくとも、風越山へ行ったか。遠くから、風越山の今を想像して歌っている。そんな歌いぶりではなかろうか。




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西行全歌集ノート(19)




さくら咲くよもの山辺をかぬるまにのどかに花を見ぬ心地する

西行 山家集 上 春

※ 「かぬる」は「兼ぬ」の連体形。現代にも「兼ねる」という動詞は残っているが、もともと、それだけの意味ではなく、英語のcoverに近い意味があった。ある領域にわたる。ここでは、「櫻の咲いた山をあちこち、渡り歩いている間は」。のんびり花見をする気分になれないという。忙しく山歩きをしているからではなく、山櫻に心が騒ぐからだろう。



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西行全歌集ノート(18)




長閑(のどか)なれ心をさらにつくしつゝ花ゆゑにこそ春は待ちしか

西行 山家集 上 春

※ 最初の「のどかなれ」は、注は、「ゆっくりしていてほしい」という花への西行の希望と捉えている。心を乱す花に対して、そういう希望を持つのは、自然だと思う。だが、もう一つ、理解の仕様があるのではないかと思う。天候に関して、穏やかであって欲しいという希望である。花が散らぬようにとの思いで。「心をさらにつくしつゝ」という措辞へと、その方が、論理的に自然に繋がるのではないかと感じるのだが......。


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西行全歌集ノート(17)




身を分けて見ぬ梢なくつくさばやよろづの山の花の盛りを

西行 山家集 上 花

※ これは、はじめ、意味がよくわからなかった。問題は、「つくさばや」だった。ウェブを調べてみると、「盡さばや」と表記してあるテキストを見つけた。「盡す」は「尽す」であるから、なにかを極める、そのマックスまで出力するという意味になるのだろう。では、何を? 

歌を全体的に読むと、「見尽す」という意味であることがわかる。「身を分けて」は、注によると、「身体をいくつにも分けて」ということで、仏について言うことの多い表現らしい。つまり、身体をいくつにもわけて、見ない梢の花がないように、見尽くしたい、山々の花の盛りを、という感じになる。

ここで、注目したいのは、「見る」という行為となにかの出力がマックスであるという言葉の組み合わせで、「見尽す」は、現代にも残る言い方だが、見るという行為の対象への積極的な心の働きかけ、もっと言えば、見るという行為と心が外部存在に憑依することの同一性を、言いたいのである。「見る」は、現代では、憑依とは関係なく、観察するに近いニュアンスになっている。見尽すは、客観的に観察し尽す、という感じが強いが、もともと、心の運動、憑依、模倣と深く関わることを、この「見盡す」の使い方は語っているように思えるである(メルロ=ポンティが知ったら、大喜びしそうである)。

この「見盡す」が、仏教的な文脈の中で、歌われていることにも注目できるだろう。ミメーシスは、一般的に、世界宗教の発展とともに、弱体化してきたと言えると思うが、その中に、引き継がれている面があるはずなのである。ちょうど、科学の中に、錬金術の考え方が引き継がれているように、である。


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西行全歌集ノート(16)




願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

西行 山家集 上 春

※ だれもが知っているこの歌は、今では見えなくなった面がある。花の下で死ぬことは、「変化」への願望を表し、「再生」への予感を孕んでいる。それは、「花」の象形から、言えることであるが、ここでは、ダメ押しのように、「そのきさらぎの望月の頃」と時期が指定してある。陰暦の2月15日は、釈迦の入滅の日にあたり、輪廻転生への願望を強く感じさせる。

実際、旧暦2月16日の満月(この年は、2月16日が満月だった)に亡くなったらしいが、その根拠は、俊成、定家、慈円の残した詞書と歌に見られる。歌のとおりの死にざまは、当時の歌人や宗教者の心を動かしたらしい。西行は、その後の宗祇・芭蕉とともに、「旅の中の人間」、「人生は旅」というイメージを作った系譜の元祖になると思うが、現在の唯物論的な考え方では、旅の終着が死になり、そこで、永遠の眠りにつくというイメージなるが、この旅は、繰り返される旅だったことに、注目していいと思う。

そして、その繰り返しは、四季の繰り返しとちょうど重なっている。花だけではなく、季節の巡り自体も、再生や変化と関わっているのである。

繰り返す季節。繰り返す人生。かつてベンヤミン(1892-1940)は、ニーチェ(1844-1900)の永劫回帰の思想を評して「大量生産の思想」と呼んだ。日本社会が、高度消費社会・高度情報化社会の先端にあることと、巡る季節の感受性は、まったく無関係とは、ぼくには思えないのである。


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西行全歌集ノート(15)




花にそむ心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に

西行 山家集 上 春

※ 花にそむ心=花に執着する心。この歌は、執着心を捨てて仏門に入ったつもりだったが、身体にその心が残っていた、という趣旨だと思う。面白いなと感じたのは、古代的な感性のミメーシス(模倣、とり憑き)を、仏教は、否定するというところで、おそらくは、理神教的なキリスト教も否定するだろう。一般的に言って、世界宗教の成立過程とミメーシス的な感性の後退は関係があるのではないかと思う。




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西行全歌集ノート(14)




1月26日

花散らで月は曇らぬ世なりせば物を思はぬわが身ならまし

西行 山家集 上 春

※ ここで、注目したいのは、「物思う」という言い回しと「わが身」という表現。物思うは、物思いなど、今でも秋の頃によく使われる。一般的には、物思いとは、思い煩うことや愁いを指し、ここでも、花が散る、月が雲に見えないことへの愁いを歌っていると考えられる。だが、このときの物とは何か。端的に言うと、多くの国語辞典や古語辞典では、最後の方に出てくる「神仏、妖怪、怨霊など、恐怖、畏怖の対象」というのが、それにあたると思う。むしろ、これが主要な意味だったと思う。この使い方でもっとも古い文献資料は753年くらいの仏足石歌に残っている。用例自体は、古代のミメーシスと直接関わるから、もっとはるかに古くからあったはずだが、書き言葉として残っているのが、これだったということだろう。仏足石歌では、毛乃(モノ)と表記している。音が先だったことがこれでも示唆されている。

つまり、なにが言いたいかというと、物とは、岩手県釜石の方言に残っているような、「人につくもののけ」「憑き物」をもともとは意味したのだろうということ。言いかえれば、心の運動と関わっている最たるものであること。物とは、外部の自然存在に心が憑依した結果、外部の自然存在を身体へ呼び込んできた状態を指すのである。狂とも関わる。「わが身」は、心に常に先行しながら、物の器となることが示唆されている。



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西行全歌集ノート(13)




1月25日

花見ればそのいはれとはなけれども心の内ぞ苦しけりける

西行 山家集 上 春

※ 「いはれ」は、理由のこと。これも、凄い歌である。花がいとしい人そのものの感じがする。いや、人間存在を超えている。「心の内」が苦しいというのは、花に圧倒されて、心が花になりきれない苦しさのようにも思える。満開の花が恐ろしいのは、そんな気分も、どこかに、あるのではなかろうか。


1月25日

白川の梢を見てぞなぐさむる吉野の山に通ふ心を

西行 山家集 上 春

※ この「心」も身体を抜け出して、吉野山へ行ってしまう。吉野の花のことを思うと、居ても立っても居られない。そんな心を目の前の白川の花の梢を見ることで、なぐさめているというのだが、西行にとって、花とは、どの花でも良かったわけではなく、み吉野の花だったことがよくわかる歌。吉野山全体が花の聖地だったのだろう。


1月25日

白川の春の梢の鶯は花の言葉を聞く心地する

西行 山家集 上 春

※ この歌には注目したい。心は、花の言葉を鶯が聞いていると想像している。やはり、花は言葉を持っている。鶯にもわかる言葉を。


1月25日

ひきかへて花見る春は夜はなく月見る秋は昼なからなん

西行 山家集 上 春

※ 確か、西行は大きな荘園を持っていて、経済的には困っていなかった。その余裕が、そうさせているとは言え、この狂い方は尋常ではない。西行は、宗教者・芸術家であるが、社会的実践モデルとしての労働に定位して、宗教活動・芸術活動を理解することもできるはずである。宗教活動は、高野山の意向を汲んで、いろいろ、活動していたので、目的定立・実現(ロゴス、パイゴス)といった観点で、了解できるが、偶然的要素が大きい、芸術活動はどうか。自然を模倣する(ミメーシス)という観点から、理解することができる。労働は、自然と人間の物質代謝であるが、人間が自然に関わる原初的な仕方は、まずは、模倣だったはずである。花になる。月になる。西行の心の狂い方には、労働の谺がある。






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