verse, prose, and translation
Delfini Workshop
西行全歌集ノート(32)
2014-03-13 / 短歌

花と聞くはたれもさこそはうれしけれ思ひしづめぬ我心かな
西行 山家集 上 春
※ 「思ひしづめぬ」は、落ち着いていられない。西行を読んでいると、この花狂いが確実に伝染する。なにかに、取り憑かれる心のありようは、周囲に伝染する。これは、素敵なことであるが、ある意味で、怖いことでもある。
※ 写真は、鎌ヶ谷市のある特養の上空を次々に飛行する自衛隊機。飛行ルートになっている。家族や大事な人を現実という暴力から、できるだけ守りたいと考えるのは、普通だろうと思う。しかし、その延長線上に国防軍という発想が出てくるのは、暴力の性格を暴力的に一元化している。自分自身が暴力になることも多々あるのだから。
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西行全歌集ノート(31)
2014-03-13 / 短歌

吉野山人に心を付けがほに花より先にかゝる白雲
西行 山家集 上 春
※ これも、心の憑依現象を歌っていて注目される。憑依は憑依する存在が前提にある。その意味で、存在論的。現代の詩歌(フロベルに始まる現代小説を含む)は、言葉の運動に特化する傾向があるが、その方向では、やはりいろんな意味で、限界があり痩せてゆくと感じている。古代の呪術性は、心の憑依と関連し、現代の存在論に通底している。ただ、存在は、神と同じで、そう簡単には把握できないという感じはする。相対論や量子論は、この間の事情を物理学的に表現していると思う。
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西行全歌集ノート(30)
2014-03-11 / 短歌

吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲き遅れたるさくらなるべし
西行 山家集 上 春
※ これは、一読残った。ありそうでない比喩。しかも、近代詩のだれかの詩にありそうな気がする。吉野山の雲だからこそなのだろう(「白雲」という比喩が、山櫻の色を思わせて、近代詩人の「染井吉野」では、出てこない比喩なのかもしれない...)。
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西行全歌集ノート(29)
2014-03-05 / 短歌

山ざくら枝きる風のなごりなく花をさながらわがものにする
西行 山家集 上 春
※ 「風のなごりなし」は風の影響がない。この歌を読むと、花を自分のものとする。独占する、所有するという契機が現れている。心が花に取り憑いて、花と心が一体化するというミメーシス的な行為と、「わがものにする」という所有は、非常に近いものだということが窺われる。対象に強調点があると模倣(ミメーシス)になり、自己に強調点があると、所有になる。
尖閣諸島や竹島が、どっちの国家が所有するか、揉めているが、そもそも、その所有自体に原理的な根拠はない。西行の歌は、所有の根拠が感情的なものであり、所有感情が生じるのは、対象との間に距離が生じている場合だということを示している。尖閣諸島や竹島の所有権をだれが声高に言っているのか、見てみればいい。
(利害関係だけから所有を説明することにどうも抵抗があるのは、人間の矜持や生の感情を捨象して利害打算だけで動くように前提するからだ。利害の裏に感情があり、感情の裏に利害が潜む。感情は、自己欺瞞の温床であり、矜持の根拠でもある)
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西行全歌集ノート(28)
2014-03-05 / 短歌

春風の花を散すと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
西行 山家集 上 春
※ これは有名な歌で、教科書やなにかにも、よく出てくる。始めて読んだときには、「胸のさわぐなりけり」という措辞が、非常になまなましく感じられた。坊さんの詠む歌じゃない。今、改めて読むと、「ほんとかいな」という気分もある。そこまで、花にのめり込む気持ちが、よくわからないからである。ほかに何もなく、山櫻だけがある。その櫻が散り始める。胸がさわぐという。花の精と交合していたとしか思えない。実は、この歌は詞書がある。「夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」つまり、題を出されて、その場で即興で詠んだということになる。ここまで、花の精と一体化している西行。畏れと嫉妬を覚える。
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西行全歌集ノート(27)
2014-03-03 / 短歌

風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
西行 山家集 上 春
※ 「とまる」は、残ること。花が風に散ることを惜しむ句がずらっと並ぶ。その中で、この句は、心は散らないで身に残ると歌って印象的。心が花と同じように感受されている。花に心は取り憑いて、身から離れてしまうのだから、花とともに散ると詠んでもいいと思うが、そうなると、心の行方もわからなくなる。実際、わからなくなるのではないかと思う。心は花とともにあり、同時に、身とともにある。時間と空間を超えている。「身」という言葉が出て来たことに注目したいと思う。
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西行全歌集ノート(26)
2014-02-17 / 短歌

吉野山ほきぢ伝ひに尋ね入て花見し春はひと昔かも
西行 山家集 上 春
※ 「ほきぢ」は、崖路のこと。前書きに「山寺の花盛りなりけるに、昔を思出て」とある。眼の前の山寺の櫻を観て昔、崖路を苦労して登って観た吉野の櫻を思い出している。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す櫻かな」もそうだが、櫻は過去を回想させる花、なにか、懐かしさを憶えさせる花、なのかもしれない(花吹雪など、まさに、死んだ人が、その中を帰って来るような気がすることがあるが)。たとえば、梅には、そういう感じはない。
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西行全歌集ノート(25)
2014-02-16 / 短歌

分きて見ん老木は花もあはれなりいま幾度か春に逢うべき
西行 山家集 上 春
※ 前書きが「古木の櫻のところどころ咲きたるを見て」。この歌の感覚は、よく理解できるように思う。櫻の古木を人と同じように感受している。古木と一体化して、老いた自分もあと何回春に巡り合うのか、と思うからこその「あはれなり」なのだろう。ここには、自分の外の対象と自分との距離がほとんどない。「客観」や「対象」という感覚はないと思う。たとえば、こういう感覚が一般的であったとして、コンビニを作るから、ブルトーザーで、古木を根こそぎにする(どこか、大量殺戮の戦争に通じる)、ということはありえないだろうと思う。社会が、明らかに質的に変わっている。
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西行全歌集ノート(24)
2014-02-15 / 短歌

思ひ出に何をかせましこの春の花待ちつけぬわが身なりせば
西行 山家集 上 春
※ 「思ひ出に」は、この世の思い出に。この世の思い出になにをしようか、花を待っても逢えない身の上ならば。熱狂的で狂信的な熱情を感じる。西行の花への取り憑き方は、少し怖くなるような処がある。前書きに「老花を見ると云う事を」とあって、死を強く意識していることがわかる。花は、西行の激しい心の飢えを満たしているようにも思われ、大きな喪失感が背後にあるようにも感じられてくる。よく言われる身分の高い女院への失恋なのか、吉本隆明が言うような過度の自意識なのか。一連の花を激しく希求する歌を読んでいると、この世への絶望なのではないか、とふと思ったりもするのである。
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西行全歌集ノート(23)
2014-02-14 / 短歌

おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらすべき
西行 山家集 上 春
※ 「おのづから」は、万一、ひょっとして。普通は、素直に、娯楽がない時代だったんだなとか、よほど、櫻マニアなんだなとか、西行に感情移入して、思うんだろうけど、どうにも、イラつくのは、前書きに「春は花を友と云う事を、清和院の斎院にて人々よみける」とあるから。これは、宮廷の人たちの当時の娯楽だった花見に関わる記録として読める。つまり、ここには、ミメーシスはあるけれど、「他者(階級の他者)」が、決定的に欠如している。そして、その「他者の欠如」は、虚子などを経由して延々と現代の俳句や短歌にまで及んでいるように感じられてくるからなのである。
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