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西行全歌集ノート(16)




願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

西行 山家集 上 春

※ だれもが知っているこの歌は、今では見えなくなった面がある。花の下で死ぬことは、「変化」への願望を表し、「再生」への予感を孕んでいる。それは、「花」の象形から、言えることであるが、ここでは、ダメ押しのように、「そのきさらぎの望月の頃」と時期が指定してある。陰暦の2月15日は、釈迦の入滅の日にあたり、輪廻転生への願望を強く感じさせる。

実際、旧暦2月16日の満月(この年は、2月16日が満月だった)に亡くなったらしいが、その根拠は、俊成、定家、慈円の残した詞書と歌に見られる。歌のとおりの死にざまは、当時の歌人や宗教者の心を動かしたらしい。西行は、その後の宗祇・芭蕉とともに、「旅の中の人間」、「人生は旅」というイメージを作った系譜の元祖になると思うが、現在の唯物論的な考え方では、旅の終着が死になり、そこで、永遠の眠りにつくというイメージなるが、この旅は、繰り返される旅だったことに、注目していいと思う。

そして、その繰り返しは、四季の繰り返しとちょうど重なっている。花だけではなく、季節の巡り自体も、再生や変化と関わっているのである。

繰り返す季節。繰り返す人生。かつてベンヤミン(1892-1940)は、ニーチェ(1844-1900)の永劫回帰の思想を評して「大量生産の思想」と呼んだ。日本社会が、高度消費社会・高度情報化社会の先端にあることと、巡る季節の感受性は、まったく無関係とは、ぼくには思えないのである。


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