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浮雲(成瀬巳喜男監督、1955年)


(1955)(白黒)(東宝)(キネマ旬報ベストテン第1位)(第10回毎日映画コンクール日本映画大賞)

監督…成瀬巳喜男(キネマ旬報監督賞)
製作…藤本真澄
原作…林芙美子『浮雲』
脚本…水木洋子
撮影…玉井正夫
美術…中古智
編集…大井英史
録音…下永尚
照明…石井長四郎
音楽…斎藤一郎
監督助手… 岡本喜八
出演…高峰秀子(タイピスト後にパンパン/幸田ゆき子)(キネマ旬報主演女優賞)
………森雅之(農林省の技師/富岡兼吾)(キネマ旬報主演男優賞)
………中北千枝子(富岡の妻/邦子)
………岡田茉莉子(向井清吉の女房/おせい)
………山形勲(伊庭杉夫)
………加東大介(向井清吉)



上記のように、国内の評価は高い。フランスをはじめとした海外での評価も高い作品である。が、映画としては、二流だと思う。どうして、そう思うかは、演出の拙速さにある。この映画は、女にだらしがない男(森雅之)と男にだらしがない女たちの物語で、隠れたテーマは、「嫉妬」だと言っていいように思う。この構造自体、真新しいものではなく、日本に限った話でもない。その意味では、普遍性がある。問題は、男と女が、関係を結ぶまでの経緯が、メインの高峰秀子を除くと、きわめて、省略された形でしか、したがって、非説得的な形でしか提示されていない点にある。この部分は、高峰秀子との関係性を中心にもってくるための、映画づくりの戦略と言えなくもないが、一回、温泉場に向う夜路で、抱きしめたくらいで女は靡かない(岡田茉莉子との関係)し、一回キスしたくらいで、すぐに部屋に上がり込むような関係になることはない(よく行く居酒屋の女給との関係)。むしろ、反発を買うのが普通だと思う。こういう関係に短時間でなるとしたら、ある集団の中で、その男に非常な価値が集団によって付与されている場合である。たとえば、キムタクを考えてみればいい。インテリの女性は別にして、普通の若い女の子なら、上記のようなことをキムタクにされたら、たいてい、本気になって追いすがるのではないだろうか。農林省の元役人、富岡兼吾の場合、こうした価値づけはない。多少イケメンなのは確かだが、それだけで、ごく短期間に、こういうドンファンみたいなことは成立しない。ドンファンになるには、社会的な媒介が必要なのである。その点の描き方が、拙速すぎるように思えるのである。

しかし、二流映画には二流映画の役割がある。この場合、日本社会の社会構造を浮かび上がらせている。それは男のダブルスタンダードという構造である。社会(つまり男社会)に向ける顔と女(家族あるいはプライベートな領域)へ向ける顔の使いわけである。これを体現しているのが、太宰にそっくりな森雅之演じる富岡であり、設定が農林省の役人なのは、とても象徴的なことである。富岡のメンタリティーは、政官財学の領域に暗躍する連中のメンタリティーと実は非常に近いものをもっている。富岡は、女にだらしがない男だが、そこがポイントではない。女に向ける権力的な態度や女に対する見方、女への精神的な依存、甘えなど、つまり、プライベートな領域での社会関係(男女関係)の作り方の原理が同じだと言いたいのである。これは、原子力ムラを構成する人々を具体的に想像してみればいい。だれとは言わないが。


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