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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(31)


■旧暦11月30日、金曜日、、鏡開


(写真)belated young santas

一段落した。何が、空が。

明方まで、ルイス・フロイスの『日本史』の漫画版を読みふける。宗祇に関心があるので、時代的にどうなのか、調べてみると、ザビエルの鹿児島上陸が1549年、宗祇の箱根湯本での客死が1502年で、キリスト教伝来の直前に宗祇は亡くなっている。1612年に徳川幕府が禁教令を発し、1613年に日本中の宣教師たちをマカオとマニラに追放するまで、64年間も、ポルトガル人を中心に、イタリア人、スペイン人(とくに現在のバスク地方出身)のイエズス会宣教師、オランダ、イギリスのプロテスタント系宣教師たちが、日本で活動していたことになる。江戸時代は、幕府と対立する禁教として、地下に潜ることになるが、後に、同じように徳川幕府から、その一派が激しい弾圧を受けることになる日蓮宗も、このとき日乗が出て、織田信長の前で、イエズス会のフロイス、ロレンソ了斎と宗論で対決している。この宗論は、イエズス会側が勝ったらしい。また、キリスト教の伝来、と一口に言っても、そこには、インドのゴアまで、人を殺して逃げ延びてきた弥次郎という日本人との出会いがなければ、ザビエルが日本へ渡ることはなかったのであるから、歴史というのは、どこか、異常に、人の興味を惹くところがある。



ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ   凡兆

押合て寝ては又立つかりまくら   芭蕉

■芭蕉の解釈を見ると、さらりと、着ぶくれた市井の人を見定めているだけで、とくに、詮索はないように思う。その人が、旅から旅へ、移動すると展開している。安東次男の解釈を見ると、貴ぶくれが、草庵冬籠のたのしみであるのに対して、旅の楽しみの雑魚寝を対置したものとなっている。凡兆の時間が夕方であるのに対して、旅立ちの朝の時間を対置し、風の縁語の「立つ」ともなっているという読みは、深いと思う。安東の理解を踏まえると、前句の人を見定めるだけでなく、前句と「対置する」という付け方があることがわかる。この二句からは、侘びしさ、というよりも、おかしみを感じ取った。それぞれ、凡兆と芭蕉のユーモア溢れる自画像にもなっていないだろうか。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(30)

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■旧暦11月25日、日曜日、、だるま市(高崎市小林山達磨寺)

(写真)無題

正月休みは、平和なので、好きだが、休み明けが異常に疲れる。日曜日まで、仕事だったので、やっと明日、一拍できる。しかし、運動ができていないので、またしても、腰の調子がおかしくなってきた。

長編小説が苦手で、ドストエフスキーを例外にして、なかなか、長いものは読む気にならない。ちょっと、関心があって、メルヴィル(1819-1891)の「白鯨」(Moby Dick)とセルバンテス(1547-1616)の「ドン・キホーテ」(Don Quixote)を調べていて、その長さに仰天してしまった。ペンギンクラシックス版での比較になるが、白鯨で、720頁、ドン・キホーテになると、1056頁ある! ヲイ、と言いたくなる。有名なだけで、こりゃ、だれも読まんわ、と思う。だが、ここまでくると、逆に、読みたくなる。好奇心が湧くのである。おそらく、だれも知らない宝物がいろいろ隠れているだろうと思う。ドン・キホーテは、もちろん、原典はスペイン語だが、英語に翻訳した場合、日本語への翻訳とは異なり、それほど、長さに差は出ないように思う。欧州の言語を日本語に直すと、たいていの場合、1.5倍くらい長くなってしまう。その分、説明的になっているのである。まあ、ぼちぼち、タイミングを見ながら読んでみよう。

今年の読み初めは、ヘミングウェイの短編、The Revolutionistだった。これは、1頁強のごく短い短編だが、ハンガリー革命を題材にしていて、まだ、子どもと言っていい、使い走りのような革命家の生のdetailが描かれている。最近、生や生活のdetailということに関心があって、あまり小説は読まないのだが、めづらしくヘミングウェイを読んだ。he had suffered very much under the Whites in Budapest...でブダペストの保守反動勢力を表現していて面白かった。



柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ   凡兆

■ぬのこ=布子(冬)。ここは、とくに、感じるところはなかったが、「着習ふ」という措辞をどう解釈するか。つまり、季節的に、着慣れてきた、というときに、「習ふ」という言葉を使うだろうか。もともと、着つけていない物を着るときに、使うように思う。着方を習得するという含意があるのではないか。これは、次の付けを見て検討してみようと思う。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(29)


■旧暦11月22日、木曜日、

(写真)hometown

午前中、白岡の実家へ年始に行く。午後、恵比寿の写真美術館で、北井一夫展を観る。なかなか、勉強になった。写真集「三里塚」を購入してきた。

デジタルカメラで写真を撮るようになって、6年少しになるが、最近わかったことがある。それは、対象とのコミュニケーションに係る事なのだが、自分の中の自己評価を引き下げないと、存在とのコミュニケーションは、深くならない、ということである。自己評価を引き下げる、というのは、それが必要のない人もいるかもしれないが、自己観察しているとよくわかるのだが、何か、苦悩を抱えていて、それと格闘せざるを得ない人間は、その代償に、自己評価が自分の中で高くなる傾向がある。言ってみれば、「ナルちゃん」なわけだが、当人は、なかなか、それに気がつかない。自己評価を引き下げるというのは、自己卑下するのとは、もちろん違うし、謙遜とも微妙に異なっている。言ってみれば、「自由になること」に近い。自己評価の高さは、人を不自由にするのである。これは、写真だけではなく、存在と関わる俳句や詩にも、言えるように思う。



湖水の秋の比良のはつ霜   芭蕉

柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

■安東次男の解釈は、去来讃として、芭蕉の句と二句一意としている。去来の存在、言いかえれば関係性を基礎にした解釈である。「歌をよむ」も、去来が「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」と詠んだことに呼応していると理解している。前句の景を詠嘆する人がいると理解し、その人を隠逸の歌詠みと趣向する言葉だけの解釈とは、異なっている。連詩をやっていると、二人だけの世界になるので、なかなか、歌仙のような、複雑な社会関係は生まれにくい。そのため、前句の解釈に重きを置いた作りになる。安東次男の理解を敷衍すると、もちろん、そういう作りはあるが、社会関係を踏まえた存在論的な発想が可能だと言うことになる。そうなると、一段、面白みが増す。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(28)


■旧暦11月20日、火曜日、

(写真)無題

今日は、正月なので何もせず。当番なので皿洗いだけ。夕方、珈琲が切れたので、ダイエーに買いに行ったら、DVDのセールをやっていた。セロニアス・モンクとオーソン・ウェルズのマクベス、パット・メセニー・グループの'98年ライブの間で、大いに迷った末に、パット・メセニー・グループにする。980円。

昨年の暮れ、特養の帰りに、意味もなく、オムライスが食べたくなった。鎌ヶ谷のide cafeという初めての店でオーダーしたのがこれ。



名古屋コーチンを使用したというオムライス。なかなか、美味だった。



青天に有明月の朝ぼらけ   去来

湖水の秋の比良のはつ霜   芭蕉

■時間の句に空間の句を付けている。時間が具体的な広がりをもった。これだけ、大胆に「の」を重ねるのは、普通はできないと思う。説明的になるのを避けようとするからだ。ここでは、<湖水の秋>の<比良のはつ霜>と、「湖水の秋」が「比良のはつ霜」全体に掛っている。秋の澄み切った琵琶湖に、はつ霜の降りた秋冷の比良山が映っている、あるいは湖水の秋の光が比良山をくっきり際だたせている、という景が形成されてくる。<湖水の秋>という時間的措辞、<比良のはつ霜>という空間的措辞が、意味のまとまりとして緊密なため、「の」の連続を可能にしたのではないだろうか。

Sound and Vision



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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(27)


■旧暦11月13日、火曜日、クリスマス

(写真)無題

身の回りのスナップ写真は、面白いけれど、段々限界を感じて来た。一応テーマは、人間の背中と雲と水だったが、いつのまにか、テーマが希薄になって来た。なにか、別のテーマを持って、取材に行きたくなってきた。もとより、観光系の写真は心が動かないので興味はない。民衆の権力との闘いの痕跡をカメラで写すとどうなるのか。同時代史的なドキュメンタリーではなく、今はない痕跡を求めるとどうなるのか。そんなことを漠然と考えている。容貌や風や光や木々のアウラに危機の痕跡を観ることができるはずだと思っている。

2009年以来、出版不況と無名の壁に阻まれて、なかなか翻訳書が出せないで来たが、ここへきて、どうにか、2冊、スタートを切れる状況になってきた。ただ、消費されるだけの本は、もちろん、訳さない。だから、苦闘するのであるが、人間、どうせ死ぬのである。死を隣に置いたとき、価値あるものとそうでないものは自ずと選別されてくるのではないだろうか。



おもひ切たる死ぐるひ見よ   史邦

青天に有明月の朝ぼらけ   去来

■安東次男の理解と、その他の理解は対照的で面白い。安東次男は、去来の正客としてのポジションに重きを置いた理解になっている。他の理解は、前句との間に何らかの脈絡を観て、そこに重きを置いている。つまり、安東次男の理解は連衆間の社会関係を見据えたものであるが、他の理解は、句の言葉の表面の理解に留まっている、とも言える。俳諧は、存在論的なものだと思う。だからこそ、霊鎮めにもなったのだろう。








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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(26)


■旧暦11月7日、水曜日、

(写真)無題

今日は、風が冷たかった。

F/Bで英語とドイツ語の俳句を実験してきたが、定期的に英語俳句のウェブ句会に参加してみることにした。今月から、投句して、選句したのだが、合計200句以上もあるので、最初は、ちょっと引けた。だが、読んでみると、思ったほどではない。短いから。なかなか、いい句もあって、楽しめそうである。

shiki kukai ここから>>>



安倍政権が誕生することになったが、ナチスを経験したドイツでは、今回の日本の選挙結果をとても心配している。デモさえ起きている。安倍という人が、「みなさまとともに」などとテレビで謳っていたのとは、真逆に、自分のことしか考えていないのは、前回の政権運営のときによくわかった。今回も、国家主義者の自分のしたいことをしようとしているだけである。憲法問題、原発問題、戦争、経済問題(とくに、TPP)、沖縄問題にとく注意して見てみようと思っている。石原、橋下の行動をよく見ると、口では地方分権を唱えつつも、体質は、ガチガチの国家主義者であることがわかる(「維新」という明治国家を彷彿とさせ、近代を志向するネーミングにも注目されたい)。この点で、安倍、石原、橋下の三馬鹿トリオは共通する。だから、非常に危険な状況だと思っている。7月の参議院選挙が、大きな山場になるが、できることをしつこくやり続ける。



せはしげに櫛でかしらをかきちらし   凡兆

おもひ切たる死ぐるひ見よ   史邦

■この史邦の句に対する安東次男の鑑賞も冴えわたっている。「第三者の掛声・間の手を以て演劇的地合とし、観相の作りとした」こういう掛声の演劇的な付けもあるのか、と吃驚した。次の(初折二つ目の月を零した)去来に対して「おもひ切たる(勇者の)死ぐるひ」を見せてほしいと促しているという。「見よ」は「観衆の期待を担った、煽りの云い回し」という理解には、脱帽。安東次男の解釈は、ときに、妄想的になりながらも、連衆の生や感情にまで入り込んだ深い理解になっていると思う。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(26)


■旧暦11月1日、木曜日、

(写真)無題

各種の世論調査で、自民党圧勝が言われている。メディアの言う「民意」あるいは「大衆」なるものは、小泉劇場選挙のとき以来、まったく信用していない。民意や大衆は操作され作りだされたものだからだ。新聞・テレビのメディアが操作しているというよりも(もちろん操作はしているが)、経済体制そのものに操作性が内在していると考えた方が本質的だと思う。経済体制が「大衆とその民意」を作りだす。原発問題や徴兵制・表現の自由の制限・独裁制に道を開く憲法改悪問題よりも、景気を何とかしてくれ、目先のことを何とかしてくれ、ということだろう。ここでは、原発問題などの諸問題と経済体制を結ぶ思考の線が分断されてしまっている。そして、問題は次のように組み替えられる。

quote脱原発で一番損をするのは、若者。経済が停滞し、空洞化が起こり、雇用を失う。そして借金が残り、重税社会となる。僕は、未来を奪う脱原発に明確に反対する。unquote(あるtweetから)

このtweetが、社会の一面だけを極大化して、普遍性があるかのように見せかけているのは、経済体制に内在した操作性の現れだと思う。

関連記事も。ここから>>>



いまや別れの刀さし出す   去来

せはしげに櫛でかしらをかきちらし   凡兆

■二句で一意の作り方になっている。新しい展開ではなく、二句で一つの世界を構成している。この転じの前も、源氏物語に面影を借りた同一世界が3句で表現されていた。問題は、どういうときに転じ、どういうときに、複数句で一つの世界を構成するかだが、このあたりは、規則性があるのだろうか。歌仙の規則が煩わしくて、どうも調べる気になれないでいる。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(25)


■旧暦10月25日、土曜日、、太平洋戦争開戦の日

(写真)ベンチ

昨日、夕方の地震で、また、本が崩れた。寝ているときに、地震があったら、頭と胸を直撃することがわかったので、本と雑誌の移動を計画している。

日本政治.comという面白いサイトがある。ここから>>> その中で、投票マッチングというコーナーがあって「投票マッチングでは、20の政策に関する質問に答えるだけで、科学的手法に基づき、あなたの考えに最も近い政党を判定します。結果の解説と見比べながら、あなたの支持政党選びの参考にしてください」と謳っている。政策本位で選択する場合、一つの参考にはなるだろう。決まっている方には、あまり必要がないが。

深夜、久しぶりに清水さんの詩集『芭蕉』を読み返した。不思議に気が楽になる。どの詩も好きだが、とりわけ、ぼくは「あとがき」を好んでいる。

あとがき

ある年齢を迎えると、家族がいようと、いまいと、人間はすさまじい孤独に陥るらしい。それを「素晴らしい孤独」とかんがえなおして詩を書いてきた。ようするに生き流れていく詩を書きたかったのである。     清水昶



うき人を枳穀垣よりくゞらせん   芭蕉

いまや別れの刀さしだす   去来


■去来の付けは女が別れの印に「腰の刀」を渡すというシーンで、源氏物語が、武家の男女の別れの場面に読み替えられている。この読み替えで、去来が、武士出身だったことを、思い出すのだが、ここまで、そういう気配はまったく感じさせない。

うっかりすると忘れてしまうが、芭蕉も去来も武士出身である。この点は、蕪村や一茶とは異なっている。面白いのは、歌仙を読んでいる限り、出身階級を忘れてしまう、という点で、武士集団よりも俳諧師集団やアウトサイダー集団に自己同一し、考え方も強く影響を受けていたのだろう、ということである。ある種の出家に近い。これは、ほかの弟子たちにも言えるのではないだろうか。現代では、俳諧師やアウトサイダーの影響を受けることは、もちろんあるが、それよりも消費社会・情報化社会の影響を強く受けているように見える。資本主義型の新しい俳人は、虚子に始まるのかもしれない。


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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(24)


■旧暦10月21日、火曜日、

(写真)無題

俳句では、笑いや諧謔を大きなテーマとしているが、フロイトに『Der Witz und seine Beziehung zum Unbewßten(機知、その無意識との関係)』(1905年)という著作があるのを調べていて知った。そこには、こんなことが書いてある。「自己の不幸を軽減するような笑いの原因を諧謔と考える」図星すぎてドキッとするではないか。

電車の中で、『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)を読んでいる。数学音痴にも唸らせるようなところがあって楽しいのだが、数学者が前提にしていて、ぼくのような数学音痴は、前提にしていないのではないかと思えることがある。それは数に関することで、よく「現象を数式を使って数量化する」と言うが、このときの数量化は、対象に何らかの量的操作を加えることを意味する。だが、数と量は別だと思う。

数は、first、second、thirdなどの順位を表し、量は操作可能性を表している。たとえば、自然数(natural number)という概念は、明らかに、順位に関連するし、有理数(rational number)や無理数(irrational number)は操作可能性に関連する。自然数は、その名のごとくに、自然に発生した数だろうし、有理数や無理数は、数の操作可能性を拡大して行って得られた概念だろう。このように、出自の異なる数を、一括して、実数(real number)のようなカテゴリーに一般化するのは、なにか、違和感が残る(たとえば、自然数を有理数に拡大する時にも、naturalなnumberがoperated numberに変質している)。

この電車の中で、、目のまえに座ったスーツ姿のカップルが、非常に、仲よくしている、もっと言うと、ベタベタしながら、軽い口調で、とめどもなくおしゃべりしている。女性の方は、やや美人である。まあ、楽しくていいね、と思いつつも、イラつきながら、本を読んでいたのだが、ふと、おしゃべりが止んだ。顔を上げて男性の方を見ると、マスクをした目が非常に虚ろである。まだ、若い。こんなに若い人をこんな虚ろな目にしてしまうものとは、いったい何だろうと思ってしまった。疲れていたにせよ、プライベートな事情があるにせよ、そこには、社会関係が関与している。その延長線上には、経済や政治、文化がある。



11月29日付けの読売新聞が、信じられないような低級な社説を書いているので、記録として貼り付けておく。

日本未来の党 「卒原発」には国政を託せない(11月29日付・読売社説)
 国力を衰退させる「脱原発」を政治目標に掲げる政党に、日本の未来を託せるだろうか。

 日本未来の党が、正式に発足した。代表に就任した嘉田由紀子滋賀県知事は「卒原発プログラム」を作成し、徐々に原発を減らして10年後をめどに原発ゼロにする意向を示した。

 「脱増税」「脱官僚」「品格ある外交」など抽象的な言葉ばかりを掲げている。経済や社会保障、安全保障といった重要なテーマでさえまだ政策がない政党だ。

 嘉田氏が「この指止まれ」と呼びかけたように見えるが、実態は国民の生活が第一の小沢一郎代表や、民主党を離党して新党を結成した山田正彦元農相らが根回しをして、合流を決めたものだ。

 空疎なスローガンと、生き残りのために右往左往する前衆院議員たちの姿には、政治家の劣化を痛感せざるを得ない。

 嘉田氏が掲げる「卒原発」は脱原発と大差はない。それだけでは願望に過ぎず、無責任である。

 電力の安定供給や代替エネルギー確保、経済・雇用対策、原子力の人材育成などについて現実的な計画を明確に示すべきだ。

 結党に際して発表した「びわこ宣言」には「原発事故の潜在的リスクが最も高いのは老朽化した多数の原発が集中立地する若狭湾に近い滋賀県」とある。電力供給の恩恵を受けておきながら、原発立地自治体への配慮が不十分だ。

 滋賀県の利害のために国政に進出するとの発想も改める必要がある。嘉田氏は知事と党首との兼務が可能かどうか悩んだという。政党運営の経験がないだけに、両立には困難が伴うに違いない。

 小沢氏が名称にもこだわった政党をあっさり捨てても、驚くには当たるまい。党首として前面に出たくなかったのだろう。その分、未来の党の公約原案には小沢氏の従来の主張が反映されている。

 日本維新の会と連携できず、民主党離党組の党だけでは選挙戦で埋没する。クリーンイメージの嘉田氏を「表の顔」に担ぎ出して巻き返そうと考えたようだ。相変わらずの小沢流である。

 「決められない政治」で既存政党に対する国民の不信感が高まる中、急ごしらえの新党の離合集散が目立っている。だが、新党は、国政を担う能力に疑問符が付き、政策も大衆迎合色が濃厚だ。

 有権者はそのことを十分理解した上で、新党の真価を見極めることが重要である。

(2012年11月29日01時32分 読売新聞)

これでは、典型的な世論操作型のドグマではないか。



隣をかりて車引きこむ   凡兆

うき人を枳穀垣よりくゞらせん   芭蕉

■枳穀はからたちの漢名。からたちは、画像からもわかるように、刺の多い樹木。ここから>>>安東次男によれば、そういう垣根から恋しい人をくぐらせよう、という芭蕉の解釈は、六条御息所の嫉妬心を、表現している、という。三番目の女をここに付けている芭蕉の解釈の独創性には、驚く。芭蕉という人は、創造的な解釈能力を持っていたことが、俳諧を検討してみて、初めて見えてきた。小学館の新編日本古典文学全集は、「そこまで同じ物語の展開をたどる必要はあるまい」とすげないが、安東次男の解釈は、断然面白い。





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(23)


■旧暦10月13日、月曜日、

(写真)無題

昨日は旧暦(10月12日)で芭蕉忌だった。奇しくも、三島由紀夫の命日と重なった。三島由紀夫で記憶に残っているのは、やはり、市ヶ谷駐屯地での演説の映像だが、もちろん、当時、テレビを観ても、まるでわからなかったろう(リアルタイムで観たかどうか記憶がない)。後から、繰り返し流された映像が刷り込まれている。ただ、そうした後からの映像の中で、三島が、団員たちと、飯を食っている映像があって、それは一度しか観ていないのだが、妙に、なまなましく印象的だった。

白米のどんぶり飯を箸で口に運ぶだけの映像が、強く印象に残ったのは、それが、飯を食うために飯を食っていたからだと今にして思う。なにかに思いつめると、話したり、休んだり、料理を見たり、味わったりといった余計なことがなくなってゆくのだろう。しかし、人は、「余計なこと(遊び)」を本質的なことに転化して人になったと思うのだが...。

今日は、冷たい冬の雨だった。一時、激しく降った。ゴッホなどにも影響を与えた広重の浮世絵、近江八景の中の「唐崎夜雨」は、夏の長雨だと思うが、もし、冬の雨だったら(画面には冬の気配もある)、其角の句「此木戸や錠のさされて冬の月」と同じように、壮絶な感じになると思う。その方が、面白い。

唐崎夜雨 ここから>>>



痩骨のまだ起直る力なき   史邦

隣をかりて車引き込む   凡兆

■安東次男によれば、ここは、源氏物語が踏まえられていて、病人が、男女の中を取り持つ場面になる、という。4人の連衆の間では、源氏を踏まえていることに、合意ができていたらしいが、現在で、こういう古典を踏まえた付け句ができるか、疑問に思う。芭蕉の時代、富裕層の教養は、たいてい、決まっていた。現在のように、メディアが、溢れている消費社会とは、社会が質的に違う。この辺の事情も、現在、俳諧が成立しにくい社会的背景なのだろう。しかし、古典を、このように、踏まえることができたら、奥行きが出て、面白いとは思う。

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