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蕪村の俳句(97)


■旧暦5月5日、月曜日、旧暦端午、

(写真)立葵

終日、仕事。家人が夏風邪でダウンしたので、久しぶりに庖丁を握る。久しぶりだったので、間違えて生姜焼に大蒜を入れそうになった。今日は、蒸し暑い一日だった。



文庫で、今年の2月に『蕪村句集』が出たので、これを基に蕪村もぼちぼち、続行。

弓取の帯の細さよたかむしろ  明和三年

■弓取=武士。「細帯は奥の細道の旅を終えた芭蕉がしめていた帯」と注にある。帯の細さと竹筵の涼しさが絶妙に響き合っていて惹かれた。



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蕪村の俳句(96)


■旧暦8月27日、月曜日、

(写真)無題

今日も雑用の嵐である。さっき、最後の雑用の郵便局から帰ってきた。些事と言えばみな些事だが…。秋の風が、昨日から、木犀の馨しい香を運んでくる。

still autumn trees -
the shades are like voices
existence without existing



阿武隈や五十四郡のおとし水   落日庵(明和六年)

■景色が開けてくるようで惹かれた。蕪村は、鳥の目を持っていて、ときどき、こういう句を作る。それでいて、虫の目も同時に持っている。蕪村の南方性、芭蕉の北方性、一茶の周辺性。



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蕪村の俳句(95)


■旧暦8月26日、日曜日、、蛇笏忌

(写真)無題

仕事部屋が、アナーキーな状態なので、外の喫茶店とか、ファミレスとか、電車の中の方が集中して本が読める。本気で、整理しないといけないだろうな、そろそろ。

雑用で日が暮れた。午後、ip電話の工事が入り、プロバイダーも同時に変更したので、メール等の設定を行う。夕方、プリンタカートリッジを買いに出る。夜、家族と待ち合わせて、居酒屋で夕食。今日は、地元の祭りで、小さい子が、両親に連れられて、居酒屋に大勢来ていた。

コミック『虫と歌』(市川春子著 講談社 2009年)読了。植物から人を作ったり、虫をひと型にしたりして、家族ドラマを描くのは、面白い切り口だと思うが、感覚的に流れてしまった感じもした。短編集だし、SFとも違うので、それも味わいのうちなのかもしれないが、次回は、もう一段深くなった物語を読んでみたいと思った。



田に落て田を落ちゆくや秋の水   明和六年

■棚田を落ちる「落し水」の様子が目に浮かぶようで惹かれた。



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※)今日、喫茶店で、ぼーっとしていたら、突然、ビートルズが連続して流れて、眼が覚めた。本当に、眼が覚めるような音楽の数々。





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蕪村の俳句(94)


■旧暦8月21日、火曜日、

(写真)無題

今日は、寒い一日だった。エアコンを暖房にしないといられない。ガスの火の管理が怪しくなってきたので、薬缶の代わりに、電気ケトルを使用してもらうように、夕方、買ってきた。火事が一番怖い。国勢調査などの用紙の管理ももはや無理。老人の介護に関わっていると、今の行政や企業活動は、心身健康な成人が対象になったシステムだとつくづく思う。これは、哲学や社会理論が暗黙に前提にしている人間像にも言えるのだろう。高齢化社会は、なかなか、シュールなのである。もう20、30年もすれば、ぼくも立派なシュール・オヤジだ。なに、すでになっているって? 



人の世に尻を居えたるふくべ哉   明和五年

■この開き直り方に惹かれた。俗世に笑いながら尻を据えているがごとし。



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蕪村の俳句(93)


■旧暦8月20日、月曜日、

(写真)無題

午前中、Pくんと久しぶりに会う。デカルト、尖閣列島問題、ハワード・ジンなどについて、議論する。ネイティブとの議論は、自分の意見を述べるよりも、相手の言うことを正しく聴きとる方が、難しい。もちろん、言いたいことを表現するのは、ぼくには、難しいのだが…。久しぶりに英語に触れたので、午後、疲れてしまって、少し昼寝。仕事。夕方、風邪気味の家人に代わり夕食担当。



妻も子も寺で物くふ野分かな   (天明三年)

■今なら、さしずめ、小学校の体育館だろうが、避難生活の様子が端的に表現されていて惹かれた。昔も、そうだったのか。



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蕪村の俳句(92)


■旧暦8月18日、土曜日、

(写真)秋の橋

午前中、叔母の往診歯科に立ち会う。腰痛から歯の痛みを訴えるので、マウスピースを作ってもらった。これで、痛みは60%くらいに軽減すると言うが…。午後、柏に修理に出していたノートを取りに行く。いつもの喫茶店で、俳句関係の本を読む。

今年は、めずらしく、角川俳句賞に応募したのだった。結果は、落選。「笑ひ」を追求すると言って、結社を辞めたので、自分の中で、一つの区切りを付けたかったのである。また、仕事拡大のチャンスとも考えたわけだが…。今年は、二人、入賞者がいる。どういう俳句が、入賞したのか、興味のあるところである。

喫茶店で読んでいたのは、飯田龍太の『俳句は初心』で、この中で、龍太は、芭蕉と蕪村を比較して、才能の多寡では、蕪村が芭蕉を上回るが、と断った上で、芭蕉について、こんなことを述べている。

…芭蕉というひとは、いわばプロペラ機のようなもの。ことに晩年の上昇は、ひたすら努力に努力を重ねて前人未到の高度を極めた俳人ではなかったかと思われるのです。別の観点からいえば、才智の甘えを捨てて、真の才能をつかみとったひとともいえましょう。安易に風に乗ることを諦め、所詮持って生まれた才智などは高が知れたものと観じたとき、その作品に光がさして来たのです。
(『同書』p.30)

ここを読んで、なんだか、励まされたと言ったら、傲慢すぎるとあきれられるだろうか。だが、所詮人間は、己の父祖の土地への旅にある他ないのではなかろうか。遙かな土地からは、笑い声が、かすかに聞こえてくる…。



鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉   (明和五年)

■蕪村は、歴史的な俳句を作るが、芭蕉と違って、自分の心身をいったん通さない。芭蕉は自分が過去と現在の歴史を二重に生きるが、蕪村は、自分が歴史の場面へ直接立ち会う。この句は、それが、「いそぐ」と「野分」という動きをあらわす言葉で、読者も、その場面に立ち合わせているのだと思う。その力に惹きこまれた。




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蕪村の俳句(91)


■旧暦8月15日、水曜日、、中秋の名月

(写真)秋夕焼

昨夜、久しぶりに、リービ英雄のエッセイを読み、夜更かしする。ニューヨークが「批評の都市」だという考え方は、何回読んでも面白い。昼ごろ起きた。あるカフェでチーズサンドを頼んだが、なかなか出て来ない、やっと出てきたら、4,000円取られる夢を見て、はっきり目が覚めた。午後、雑用で、街に出る。汗びっしょりで、帰宅してシャワーを浴びる。

22日、MI6の正史が英国で出版された。グレアム・グリーンやサマセット・モームもMI6のスパイだったというのは、面白い。日本の小説家や詩人、俳人にスパイがいても少しも不思議ではない。どこのスパイかはわからないが…。

夕方、中秋の名月を観る。雲と靄で朧月の趣。



舟中
池暮て月に棹さす思あり   月溪書簡(安永九年)

■池の月。天地二つの月を愛でる情景だが、夕方から夜に変わる時間のゆるやかな流れの中にいて、月を愛でている。その時の流れに惹かれた。「月に棹さす思い」というのは、池の大きな夜空を羽ばたきたいがごとき気分だろうか。



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蕪村の俳句(90)


■旧暦8月12日、日曜日、、子規忌

(写真)九月の風の形

元気が出ないので、運動することにして、近くのスポーツセンターに通っているのである。午後、テレビの回線工事。叔母のところも立ち会って、午後中かかる。

11月下旬に、某大学でレクチャーする機会をいただいたのだが、今回は、かなり苦戦している。イデオロギーと情報の関係をテーマにしているが、自分の考えが深め切れていない。具体的な分析を入れないと、話として、面白くないが、理論的な検討だけで、手いっぱいという感じである。さて、どうまとめるか。

昨日、巴里のマエストロからメールがあって、新作詩をごっそり送ってくれたので、ここで、タイミングを見て、少しずつ翻訳・紹介していきたいと考えている。夏は、ザルツブルク音楽祭などのコンサートで非常に多忙だったらしい。



行舟や秋の灯遠くなり増る   題苑集 年次未詳

■舟の秋の旅の風情に惹かれた。「増る(まさる)」という措辞が、舟の動きを暗示していて句に動きを与えている。静的な俳句は比較的簡単にできるが、運動を入れるのは難しい。新しさを求めると、名詞で表現しようとしがちだが、名詞よりも動詞の使い方が、難しい。
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蕪村の俳句(89)


■旧暦8月10日、金曜日、、西鶴忌

(写真)無題

今日は、爽やかな秋日和。空気が軽い。ものの影は秋の影。白と黒の対比が渇いていて、陰影がくっきりしている。月曜日まで、工事で煩いので、午後から、運動に行くことにした。久しぶりにみっちり筋トレ。気分いい。



青墓は昼通りけり秋の旅   落日庵(明和六年)

■青墓(おうはか)は、大垣市の地名で、古く宿駅。遊女が多くいた。夜、帰宅途中に、キャバクラの黒服の兄ちゃんが、何人もたむろしていて、必ず、声をかけられる。それがうざくて、帰宅ルートを替えたのだが、これが、きれいな女性だったら、ふらふらついて行くかもしれないな、と蕪村の句を読みながら思った。蕪村が、昼通る、というのも、わかる気がする。それでw惹かれた。
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蕪村の俳句(88)


■旧暦8月8日、木曜日、

(写真)無題

今日は、一気に秋になった気分である。涼しい。足元は寒いくらいである。新涼。そんな言葉が浮かんだ。夕方、また、秋の雨。

小沢さんに勝ってほしかったが、残念な結果になった。菅さんでは、根本的な改革はできないだろう。明治維新のときのように、目に見える外的脅威がないと政治的な目覚めは起きないのかもしれない。無血革命の継続が、至上命題であるから、重要な問題は、イデオロギー問題だと言えるのではなかろうか。既得権勢力は、マスコミと検察を使って、毎日、刷り込みを行っている。「政治と金」のような一見、もっともらしい正義を振りかざすマスコミと検察の「政治性」が問題になることはあまりない。この二つの組織に共通するのは、以前にも書いた(「自己義認と実証主義」)が、自己義認と実証主義である。しかも、この二つは内在的に関連している。「政治と金」のようなテーマ設定をマスコミが行うこと自体、そこに政治的な意図があるのは、比較的、見て取りやすいが、このテーマの政治性を社会的な問題にするのは、かなり難しいと思った。今回の投票結果は、それを物語っているように思える。「イデオロギー」の問題。今後も、じっくり検討してみようと思っている。



秋雨や水底の草を踏みわたる   明和五年

■水底は、川とも水たまりとも読めるが、川と考えると、秋雨の水紋が見えるような気がする。秋の野を行く旅人の後ろ姿に惹かれた。

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