verse, prose, and translation
Delfini Workshop
蕪村の俳句(107)
2012-01-14 / 蕪村

(写真)無題(この店、安くて旨かった)
終日、風邪で調子悪し。歯医者へ行ったら、歯ブラシの持ち方を点検された。現状の持ち方では、強く磨きすぎて、歯が削れているという。そこから、虫歯になる可能性があるので、ペンを持つように持って磨くと力加減はちょうどいいと言う。なるほど、自分は、馬鹿力で磨くので、家族の中でも一番、歯ブラシの交換頻度が高い。ペンを持つように持って磨いてみたが、横よりも縦方向の磨き方に適しているようだ。確かに、力加減はソフトになる。
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大鼾そしれば動く生海鼠かな 明和五年
■この句は、一読笑えるのだが、今まで、海鼠を擬人化した句だと思っていた。どうも、解説を読むと、その反対で、海鼠のようにごろりと太った男の比喩だという。そう言えば、自分自身を海鼠に見立てることはよくある。この比喩は、当時、一般的だったのか、蕪村独自のものかはわからないが、とても面白い。「おい、海鼠野郎!」と、使ってみたい悪態の言葉が一つ増えたw。
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蕪村の俳句(106)
2011-10-12 / 蕪村

■旧暦9月16日、水曜日、

(写真)秋の風
今日は、いやなニュースが続いた。横浜でストロンチウムが検出された。ここから>>> ストロンチウムは、産経新聞を始め、マスコミや「専門家」の方々が、比重が高いので、遠くへ飛ばない、福島の観測値も低いので、首都圏は飛散の心配がない、という想定・仮説で、結果的に未測定を「基礎づけてきた」核種である。ストロンチウムという核種についてはここから>>> 検出が技術的に難しいことも測定がされなかった理由であろうが、こうしたマスコミや「専門家」と同じ、想定・仮定を国や自治体が共有していたことは、否定できないだろう。たとえば、文科省は「プルトニウムやストロンチウムの沈着量はセシウムに比べ非常に小さい。今後の被曝の影響評価や除染対策はセシウムに着目するのが適切」としている(9月30日朝日新聞)。仮説は、所詮、人間の想像力の産物でしかない。データは、仮説枠組みと解釈枠組みという二重の社会的条件に、媒介されて存在している。したがって、仮説枠組みを物象化せず(そもそも、仮説の物象化が、「福島原発事故」を招いたのではなかったのか)、国民の生命を守るという価値観で、データの収集と解釈を行う義務が公的機関にはあると思う。それは、憲法13条および25条で規定されているとおりである。
憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
これと関連するが、福島の新米が全域で出荷可能になった。ここから>>> 暫定基準値が500bq/kgである。これをクリアしたというのがいったい、どんな意味があるのだろうか。しかも、ストロンチウムは測定されていないのである。ウクライナ基準40bq/kgの13倍もの暫定値が、なぜ、基準となるのか、その基礎づけは明らかにされていない。福島を助けるという大義名分は、憲法違反ではないのだろうか。福島も自分も助けるべきなんじゃないだろうか。テレビなどを観ていると、「首都圏で高い数値が出たことに驚くのではなく、福島のみなさんの状況を想像してみましょう」などと馬鹿馬鹿しいほど頓珍漢なコメントが放送されている。福島の助け方が、あまりにも安易で、日本社会全体の共同責任にされていくプロセスは、どこか狂っている、と感じるのはぼくだけだろうか。これは、自然災害ではないのである。加害構造が明確に存在するのである。
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Ustreamで肥田舜太郎(94)氏のインタビューを観る。広島で被曝、1,000人以上の被爆者の治療にあたる。とくに、2時間過ぎからの内部被曝と各種疾病の関連に関する知見が参考になる。ここから>>> 長いですが、原発とアメリカを結ぶ線が見えてくる。
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負まじき角力を寝ものがたり哉 明和5年
■負まじき(まくまじき)=負けるはずのない。相撲取りの大男の可笑しみに惹かれた。その可笑しみは、鏡のように自分に返って来る...。
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蕪村の俳句(105)
2011-10-02 / 蕪村

■旧暦9月6日、日曜日、

(写真)山縣有朋の元別荘を流れる高瀬川。この辺が鴨川から別れて高瀬川の「源流」となる。現在は、宴会・食事処「がんこ二条苑」になっている。友人たちが、予約してくれて、京料理を味わう。

湯葉を食べた後、にがりを入れて豆腐を作る鍋がとくに面白かった。飲み放題。

高瀬川「源流」、紅葉の季節は、また、いいだろうなと思う。
この料亭に入る前、時間があったので、市役所の北側の路地をぶらぶらしていた。あまり、その辺り歩いたことがなかったのだが、京の特産品の竹箸や竹細工を売る店や骨董店が軒を並べていて、いい雰囲気の一角になっている。竹箸と箸置が安かったので、購う。
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今日は、ほとんど、雑用に明け暮れる。午後から、冷蔵庫の整理、掃除、運動、買い物。夕食を一品作る。芸がないので、また、生姜焼。
29日に文科省から、千葉・埼玉の線量の航空機モニタリング測定結果が出た。ここから>>>このデータをみると、市で測定している結果とほぼ一致する。ぼくの住む松戸は、流山、柏、三郷などとともに、ホットスポットであることが裏づけられている。故郷の群馬県の山間部も高い線量が観測され、汚染地帯になっていることがわかる。温泉や山の自然を心から楽しめなくなってしまった。欺瞞の全体構造に改めて怒りが湧いてくる。
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染あえぬ尾のゆかしさよ赤蜻蛉 明和五年
■どこか、余白を残しておく、どこか、未完のままにしておく、というセンスに、共感する。完成は、没落の始まりであり、息苦しさも伴なう。突拍子もないように思うかもしれないが、完全性は「殲滅する」という思想とも、どこかで通じているようにも感じる。ちなみに、「ゆかし」は心惹かれるの意。
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蕪村の俳句(104)
2011-09-25 / 蕪村

■旧暦8月28日、日曜日、

(写真)蕪村の晩年の住居跡、仏光寺烏丸西入ル
この立て札、ぼくの知らなかったことがずいぶん書いてあったので、メモしてきた。
与謝蕪村宅跡
蕪村は享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたと言われている。20歳の頃、一人江戸に下り、早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。27歳、師巴人が没した後、江戸を離れ、関東・奥羽地方へ長い旅に出る。関東、東北地方を遊歴すること約十年、蕪村は寛延4年(1751)、36歳で京都に上り浄土宗総本山、知恩院の近くに居を得る。3年足らずで京都を去り、丹後宮津へ赴き、浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。42歳で再び京都に戻った蕪村は、姓を谷口から与謝と改め、画を売って生活を立てる決心をし、やがて妻帯する。その後数か所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み、俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生みだしたのである。蕪村の幻の日記に次のように記されている。「安永三年十一月某日(蕪村59歳のとき)、近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空き家ありと、とも(妻)が見つけてまたその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話が決まって三日前に移転をする。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって画絹ものびのびと広げられ心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る」
注 昭和36年までここに路地があり、地蔵尊は昭和22年8月、釘隠町町内会の総意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。
桃源の路次の細さよ冬ごもり 明和6年
■この句は、陶淵明の「桃花源記」の「初極テ狭ク、僅ニ人通ル」を踏まえているが、明らかに、実際の住居が路地の奥にあったことを詠んでいる。今住んでいるここが桃源郷だという、「定住の境地」は、芭蕉晩年の境地に通じる。旅の人、芭蕉と比較すると、蕪村は定住の人のイメージがあるが、最初から、定住者ではなく、還暦近くなって、自分の桃源郷を現実の中に見出したことに感銘を覚える。蕪村に「幻の日記」があったことを、この立て札の説明で初めて知った。
メモを熱心に取っていると、どこからともなく、80を優に超えた老婆が現れ、ぼくを蕪村の句碑まで案内してくれた。その句碑の一つが、この句である。「路地」ではなく「路次」と書かれた句碑の筆遣いを読みかねていると、老婆がすらすら吟じてみせて、こう言った。「蕪村はんの家の前にはな、高島屋の社長が住んではって、庭には、たいそうな白梅の古木がありましたんや。きっと、蕪村はん、その白梅を見てはったんやろ」もう一つの句碑は、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」である。時の裂け目から現れた老婆と白梅。秋天に梅の花盛りが一瞬、見えたような気がした。
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蕪村の俳句(103)
2011-09-21 / 蕪村

■旧暦8月24日、水曜日、

(写真)the light of late September
午後から、本降り。風雨の中、飛ばされかかっていたベランダの日除けを片付ける。
もろもろ、元気が出ないので、墓参りに行くことにした、蕪村のw。秋の彼岸でもあるし。蕪村の墓は、京都の金福寺にある。蕪村は、仏光通烏丸西入ルに居住していたが、花街、島原の句会によく招かれたらしい。金福寺には、蕪村一門が再興した芭蕉庵もある。蕪村については、松岡正剛さんが「不在の存在学」という興味深い指摘をしている。
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四五人に月落ちかゝるおどり哉 明和五年
■これも、ちょっと、驚く表現。「月落ちかかる」の臨場感と踊りの組み合わせに惹かれる。この句で面白いのは、「四五人」という数。これは、踊りを考えると、少ないが、少なすぎない。闇の深さと広がりを表すのにふさわしい数ではなかろうか。この句の幻想的な雰囲気は、この数によるところが大きいように思った。
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蕪村の俳句(102)
2011-09-19 / 蕪村

■旧暦8月22日、月曜日、

(写真)今日のデモから
今日は、「さようなら原発1000万人アクション」に参加。呼びかけ人に、鎌田慧氏、大江健三郎氏、落合恵子氏、内橋克人氏、澤地久枝氏とそうそうたるメンバー。オープニング・コンサートに沖縄のバンド、寿のパフォーマンス。スピーチに、環境団体ネットワークのFriends of the Earthドイツ代表、フーベルト・ヴァイガー氏、山本太郎氏、武藤類子氏を迎えての、集会。その後、デモを1時間半。写真はここから>>>。今日は、デモ行進に集中して、あまり写真は撮れていないが、雰囲気は伝わると思う。プラカードに俳句は、意外と有効なことを発見。日本人には効くのか、5・7・5。近寄ってきて見る人や写真に撮る人、多数だった。
今回は、在特会も右翼のお兄さんも現れなかったが、デモ中、一つのハプニングがあった。一人の小太りの紺の半ズボンをはいた中年が、走りながら、デモ隊に罵声を浴びせて行ったのである。その罵声とは。「お前ら、電気をさんざん無駄遣いしやがって、何言っていやがるんだー」という走りながらの御苦労さんである。この罵声の中年は、東電関係者かもしれないが、こういう想いのデモに対する嫌悪感あるいは抵抗感は、現実に広く、あるのかもしれない。この中年が見ているのは、一人一人の電気の無駄遣いの行為であって、その一人一人が、無駄遣いさせられるような仕組みや生活文化様式、社会体制に媒介されて、初めて、存在することを観ていない。つまり、抽象的な個人を攻撃しているだけであって、個人が所属する全体社会の罪を観ていない。その全体社会は、日本を越えて、広く地球を覆う人間社会のありよう総体なのである。原発問題は、近代の中心にまっすぐに届く問題なのである。
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稲妻や波もてゆへる秋津しま 明和5年
■この句もいつも目に留まる。雄大なスケールと創造神話を思わせる俯瞰性。
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蕪村の俳句(101)
2011-09-18 / 蕪村

■旧暦8月21日、日曜日、

(写真)無題
昨日の夜の運動で疲れたか、12時まで眠りこむ。午後、買い物など。ブルバキを一通り読んだので、基本的な数学を勉強し直したくなり、『もう一度読む高校数学』という本を読んでいる。もろもろ完璧に忘れている。ただ、「数と式」のところは、完全に、文法の話と同じで、新しい言語の習得をしているような気分になる。しかし、因数分解など、理屈はわかっても、次数を下げたり、積の形にしたりする式の変換が、どう使われているのか、あるいは、どう使えるのか、といった話はない。言語の意味は、言語の使用法が決定するように、数学の意味は、その使用法が決定すると思うのだが...。
パリに研究拠点を持つi先生によると、パリでは、チェルノブイリ裁判が進行中らしい。パリにまで影響を与えたチェルノブイリ。フクシマは...。
夜、明日の明治公園デモで使用するプラカードを作成。計3枚作った。2枚には、原発を詠んだ俳句を載せ、1枚には図形詩を載せた。プラカードに俳句と図形詩を用いた例は、聞いたことがないので、たぶん、世界初と思う。ま、わが心の叫び!
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秋来ぬと合点させたる嚏かな
■藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今集)を念頭に置いているが、それを、笑いに転化した点に惹かれた。ちなみに、「合点」は、和歌や俳諧を批評して佳いものに点・丸・鈎などの印を付けること。和歌は著名歌人が、俳諧は宗匠が、合点した。納得する、承諾するは、そこから発生した意味。
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蕪村の俳句(100)
2011-06-18 / 蕪村

■旧暦5月17日、土曜日、

(写真)無題
腰痛が悪化して、動きが取れなくなってしまったので、家で大人しくしていた。徐々に、Facebookに慣れてきたが、個人だけでなく雑誌や新聞、NPOなどの団体もやっているので、なかなか、重層的で面白い。twitterが情報を一方向的に伝える傾向が強いのに対して、Facebookはinteractive。その意味で、web本来の持ち味が生かせているのかもしれない。
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温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋 明和五年
■一読して、秋の気配が伝わってきて惹かれる。秋の立った気配を朝の湯の透明感と水への触覚で掴んでいて、後世の類句の元祖的な句だと思う。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(99)
2011-06-14 / 蕪村

■旧暦5月13日、火曜日、

(写真)無題
昨日、家事を手伝っていて、ぎっくり腰を再発してしまった。夜は、寝たきり状態。3.11以降、ここは放射線量のホットスポットになってしまっために、この3カ月、まったく運動ができなかった。これに起因する筋力の低下が背景にはあるのだろう。
今日は、特養の面接に立ち会う。9月にオープンする特養に、うまく行けば入れそうである。3.11以降、同時に進行する複数の問題と格闘してきたが、そのうちの介護問題は、シナリオの実現が見えてきた。この特養はK市にあるので、放射能問題もクリアできる。高放射線量に伴なう引っ越し問題も、ずっと検討してきたが、実際に、測定器を購入して、数週間、生活圏を測定してみた。過去の内外被曝の積算量を踏まえると、年間で1mSvを越えないことがわかってきた。これによって、即時の引っ越しというシナリオは遠のいた。ただし、これには、福島第一原発の状況が安定・収束に向かうという前提が必要になる。しかも、測定器は内部被曝を測定できないので、ここに住むには、最低でも、二つの条件をクリアしなくてはならないだろう。一つは、内部被曝は、基準値以下であっても、回避する。二つは、時折、身体を休めるために、汚染されていない地域へ移動する。本来、こうしたことにかかる費用は東電と政府が負担すべきだろう。
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鮒鮓の便りも遠き夏野哉 明和五年
■蕪村は、鮒鮓が好物だったのだろうか。鮒鮓の名産地、近江と蕪村の関連はいまひとつわからなかった。この句は、夏野の涯のなさを記憶という時間の問題で表現していて惹かれた。
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Sound and Vision
福島第一原発がおかしいようだ。早朝の1時ごろの状況。
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蕪村の俳句(98)
2011-06-13 / 蕪村

■旧暦5月12日、月曜日、

(写真)無題
朝から雨で室内は異常に蒸し暑い。シェイクスピアとチェーザレ・ボルジアは、どれくらい年代が離れているのか、ふと気になって、調べてみた。シェイクスピア1564-1616、ボルジア1475-1507、生まれで89年の差、ボルジア死去からシェイクスピア誕生まで、57年。死去の年齢、シェイクスピア52歳、ボルジア32歳。ともに、若死にである。
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青梅に眉あつめたる美人哉 明和五年
■これは、何度読んでも、向うから飛び込んでくる句である。蕪村自身も言っていることだが、難しい「美人」の使い方が、上手くいったためではなかろうか。
☆
Sound and Vision
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