電脳筆写『 心超臨界 』

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( ラリー・エルダー )

日本史 鎌倉編 《 「もう一つの中華」北朝――渡部昇一 》

2024-05-23 | 04-歴史・文化・社会
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最初は新田方の勝ち戦(いくさ)で、尊氏は多くの有能な武将を失って九州に逃げざるをえなかった。そこで尊氏側が敗因を分析したところ、自分たちの側に天皇がいないことに気付いたのである。建武の宮廷がいくら腐敗していたとしても、中華である。中華に辺境が勝てないことは、尊氏自身も感じていたところであった。そこで、もう一つの中華を作ることを考えたのである。これが北朝の起源である。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p115 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(2) 後醍醐(ごだいご)天皇――正統絶対主義者の功罪

◆「もう一つの中華」北朝

武士の起源みたいに言われるのは源義家(みなもとのよしいえ)である。その子の長男義親(よしちか)の子供が頼朝であるが、次男の義国(よしくに)からは、新田義貞の先祖と足利尊氏の先祖が出ている。頼朝の系統はすでに絶え、北条氏の世になったわけだが北条は系図上は平家である。

北条を亡ぼした建武の中興で、武将の勲功第一は足利尊氏であり、第二は新田義貞父子である。足利・新田ともに、家柄から言えば源氏の正統であるから、ここに権力闘争が起こったとしても不思議はない。

後醍醐天皇はといえば、「武」を武士にまかせておくという考えはなく、天子自ら武を握るという理念であった。

北条が倒れたとき、年号を元弘(げんこう)から建武(けんむ)に改めたが、ここに「武」の字が入っているのもそのためである。後醍醐天皇は何しろ勉強家で、シナの歴史をよく知っていた。そして王莽(おうもう)の乱を武力を以て治め、漢の王室を再興した後漢の光武(こうぶ)帝の役割を、自分が演じたとお考えになったらしい。それで、光武帝の年号の建武をそのまま採ってきて、新しい年号を建武としたのである。

この場合の年号の選び方も、日本の従来のやり方に拠らない。宋学といい、建武の年号といい、後醍醐天皇のなさったことは、ひじょうに異国ふうのハイカラなものだったのである。

このように、「武」に対して一つの理念があるので、護良(もりなが)親王に対しても、征夷大将軍の称号をなかなか許そうとはなされなかったのである。

ところが、その次の年の建武元年には、この護良親王は天皇に対する陰謀の容疑で宮廷に参内(さんだい)したときに捕えられてしまう。

大塔宮(だいとうのみや)護良親王こそは後醍醐天皇が隠岐に流されている間も、楠木正成らと北条と戦い抜いた武功抜群の親王であった。誰も、この方こそ皇太子になると思っていたが、愛姫阿野廉子(あのれんし)の腹から生れた当時13歳の恒良(つねなが)親王が皇太子に立てられた。

そして、足利尊氏の武力が次の脅威になることを憂えた護良親王を、かえってその足利の手に渡すようなことを、後醍醐天皇はなさったのである。かくして、建武の中興に最も功績のあった護良親王は、天皇に裏切られて非業(ひごう)の死を遂げたのであった。

建武2年(1335)には亡ぼされた北条高時(たかとき)の子の高行(たかゆき)が兵を挙げたので、この征伐に足利尊氏が行くことを喜ばず、これを拒否して成良(なりなが)親王を征夷大将軍に任じた。あくまでも宮廷が「武」を握るのだ、という立場である。

しかし、尊氏のほうは、自分のほうで勝手に征夷大将軍を名乗った。すると、在京の武士の半数以上はこれに従ったという。武家政治の復活を願う武士が、いまや天下に満ちていたことを示すものであった。

かくして天皇と尊氏は敵対することとなったのである。天皇はご自分の名前(尊治(たかはる))の一字である「尊」の字を与えるほど尊氏を重んじ、尊氏も天皇個人には親愛感を持っていたらしいのであるが、時の勢いはそういう形になったのであった。

いくら天皇が「武」と言っても、それは理念にとどまるだけであり、具体的には武士が登場しなければならない。天皇側の武士の総帥(そうすい)は新田義貞になったのであるから、ここに源氏の嫡流(ちゃくりゅう)の二派が争う形になった。

そして最初は新田方の勝ち戦(いくさ)で、尊氏は多くの有能な武将を失って九州に逃げざるをえなかった。そこで尊氏側が敗因を分析したところ、自分たちの側に天皇がいないことに気付いたのである。

建武の宮廷がいくら腐敗していたとしても、中華である。中華に辺境が勝てないことは、尊氏自身も感じていたところであった。そこで、もう一つの中華を作ることを考えたのである。

これが北朝の起源である。
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