電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
( J・ビリングス )

不都合な真実 《 本当の憲法9条1項「戦争」放棄――篠田英朗 》

2024-06-23 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


憲法9条1項は、1928年不戦条約のみならず、1945年国連憲章が成立した後に、これらの国際法規を前提にして、1946年に作られたものだ。その文言は、両者の「コピペ」とさえ言えるものであり、両者の国際法規規範を遵守する意図を表現していると考えるのが、妥当だ。「国際紛争解決のため」「国家の政策の手段としての戦争を放棄」する、といった文言において、1928年不戦条約と憲法9条1項の文章は酷似している。憲法起草者が、どうしても国際法との連動性を意識せざるを得ないように配慮したためだろう。


◆本当の憲法9条1項「戦争」放棄

『憲法学の病』
( 篠田英朗、新潮社 (2019/7/12)、p19 )

  9条1項「戦争放棄」条項は、国際法で違法化されている「戦争
  (war)」行為を行わないことを、日本国民が宣言した、現代国際
  法遵守のための条項である。国際法秩序を維持するための自衛権は
  放棄されていない。

憲法9条は、平和主義の条項である。そのことに疑いの余地はない。

しかし長い間、憲法9条は、国際社会に背を向けて、独自の価値規範を一方的に掲げたものだと解釈されてきた。

憲法9条が打ち立てようとしているのは、国際社会が標準としている平和主義のことではなく、何か全く別のものだという解釈が、憲法学通説となってきた。

そのため、憲法を守るためには、国際社会から距離を置き、国際法に対する憲法の優位を宣言しなければならない、とされてきた。

憲法9条があるがゆえに、日本は世界で最も卓越した国になっており、それ以外の解釈はすべて日本を戦前の軍国主義に引き戻すことに等しい、と主張されてきた。

だが、そのような憲法9条解釈は、ガラパゴス主義に依拠したものでしかない。なぜなら憲法9条は、日本を国際社会の正当な一員とするために制定されたものだからだ。憲法9条は、国際法を遵守し、国際法に従って活躍する日本を作り上げるためのものである。

まず憲法9条1項を見てみよう。

  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国
  権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争
  を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

9条1項は「戦争放棄」条項として知られるが、1928年不戦条約や1945年国連憲章2条4項を意識したものであることは、条文の文章から明らかだ。

1928年不戦条約は、次のような文言からなる。

  (第1条)締約国は国際紛争解決のため、戦争に訴えることなく、
  かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄す
  ることを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
  (第2条)締約国は相互に起こりうる一切の紛争又は紛議を、その
  性質又は理由にかかわらず、平和的手段による以外には処理又は解
  決を求めないと約束する

さらに1945年国連憲章は、2条4項において、次のように規定する。

  すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武
  力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、
  また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも
  慎まなければならない。

憲法9条1項は、1928年不戦条約のみならず、1945年国連憲章が成立した後に、これらの国際法規を前提にして、1946年に作られたものだ。その文言は、両者の「コピペ」とさえ言えるものであり、両者の国際法規規範を遵守する意図を表現していると考えるのが、妥当だ。

「国際紛争解決のため」「国家の政策の手段としての戦争を放棄」する、といった文言において、1928年不戦条約と憲法9条1項の文章は酷似している。憲法起草者が、どうしても国際法との連動性を意識せざるを得ないように配慮したためだろう。

日本は、1928年不戦条約に加入していながら満州事変を起こし、不戦条約の体制を揺るがせた国として世界史に記録されている。憲法起草者はそこで不戦条約の文言を国内法の最高法規である憲法典に挿入することによって、さらにいっそう不戦条約の内容を日本が守る仕組みを作ろうとしたのだろう。

憲法9条が、「前文」以外では、条文としてはただ一つ、「日本国民は」、という主語で始まる条文である事実は、不戦条約が「各自の人民の名において厳粛に宣言する」ものであったことを意識した結果であることが読み取れる。ちなみに日本国憲法「前文」で主権者とされた「国民」は、GHQ草案などでは「people」とされていた語句であり、不戦条約における「人民(people)」と同じである。ただし、9条に「日本国民は」という主語を入れたのは、GHQではない。国会で憲法審議にあたった、芦田均が委員長を務めた衆議院帝国憲法改正小委員会である。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言を9条の冒頭に挿入したのも、芦田の憲法改正小委員会である。これらの措置は、9条と「前文」との連動性を明確にするとともに、9条と国際法との連動性も明確にするためのものであったと言える。

憲法9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した。「武力による威嚇又は武力の行使」という文言は、1945年国連憲章2条4項を模倣したものだと言える。日本は1928年不戦条約に加入していたが、1946年の時点では1945年国際連合憲章には未加入であった。そこで国連憲章によって強化された新しい国際法秩序をも遵守するという意図をもって、9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した、と理解するのが、妥当だ。

したがってこれらの国際法規において、自衛権が放棄されていないことについては、疑いの余地がない。1928年不戦条約が放棄した「戦争」は、19世紀ヨーロッパ国際法における「戦争」のことであり、そこに自衛権や国際連盟が発動できる集団安全保障の制裁措置は含まれていないことは、確立された理解である。それが、憲法9条1項が模倣している、「国際紛争解決のため」の「国家の政策の手段としての戦争」という文言が意味することである。

国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定め、1928年不戦条約と同じように、自衛権と集団安全保障を2条4項が否定していないことを、明文で確認している。それが、憲章2条4項の「国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法による」「武力による威嚇又は武力の行使」という文言が意味していることだ。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■超拡散記事『榎本武揚建立「... | トップ | 不都合な真実 《 本当の憲法... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事