電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

活眼 活学 《 神の道と人の道――自然訓/安岡正篤 》

2024-06-23 | 03-自己・信念・努力
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機前というのは、ちょうど一日で言うならば、日が出て鶏も鳴き出す、人間も起き出す。特に人間世界のいろいろな営みが始まる。こういう働きを機という。その前、だからつまり暁である、早朝である。一年で言えば、「神代のことも思はるる」という元旦である。人間で言うならば幼児。地球で言うならば混沌・太初である。ちょうど人間で言うと、その一日の活動が夜明けから始まる。夜明けは実に静寂で、光明で、清浄である。明るく、清く、静けく、これが自然、即ち一日の始まり、一年の始まり、すべて太初、大いなる初の心だ。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p200 )
[3] 座右銘選話
5 自然と素心規

◆神の道と人の道――自然訓

藤原基家という鎌倉時代の優れた歌人がある。この藤原基家のあまたの名作の中に、「神こそは野をも山をも作りおけ人に誠の道をふめとて」という一首がある。神こそは野をも山をも作りおいた。「こそ」とあるから、「おけ」と結ぶわけで、作っておけという命令ではない。文法上の結びです。神こそは野をも山をも作ったものである。なぜ作ったかといえば、人に誠の道をふめとて。好い歌だ。この基家の傑作「神こそは野をも山をも作りおけ人に誠の道をふめとて」というのにちょうど好いコントラスト・対照を成すのが、明治初期の副島種臣の「あやにあやにかしこくもあるか天地(あめつち)の御稜威(みいつ)の中に立ちたるわれは」。好一対を成すもので、表現は違うけれども心は一つである。

この天地という根元に帰って天地開闢の心構え、即ち「機前を以て心と為す」。これは伊勢神道の鎌倉期における最も偉い人である村松(度会(わたらい))家行、この人が伊勢神道というものを大成したと申して宜しい。これは同時に非常な忠臣であって、北畠親房卿は、殆どこの村松家行の庇護・応援によってあれだけの活動ができた。日本人はあまり知らないけれども、これは日本歴史上の非常な偉人だと、私は敬服しておる。この人の神道学というものは偉大なもの。五部書の一『類聚神祇本源』に、「志す所は機前を以て法と為し、行ずる所は清浄を以て先と為す」と言っておる。

機前というのは、ちょうど一日で言うならば、日が出て鶏も鳴き出す、人間も起き出す。特に人間世界のいろいろな営みが始まる。こういう働きを機という。その前、だからつまり暁である、早朝である。一年で言えば、「神代のことも思はるる」という元旦である。人間で言うならば幼児。地球で言うならば混沌・太初である。ちょうど人間で言うと、その一日の活動が夜明けから始まる。夜明けは実に静寂で、光明で、清浄である。明るく、清く、静けく、これが自然、即ち一日の始まり、一年の始まり、すべて太初、大いなる初の心だ。神道というものは、この太初、この静寂・清浄・光明を本体とする。

これを村松家行がよく解説しておる。伊勢神道はこれを本領とするもので、その機前を以て心と為す。従って大いなる元・始め・大元・大本・太初を尚(たっと)び、それこそいろいろの汚れ、俗気を斥けて、神気を嘗(な)め、正直・清浄を行じてゆく。一言でいうならば、これが日本神道の眼目・骨髄である。文明というものは、これを失ってはいけない。これが文明と人間の救われる神髄。世が明けてがたがたいろいろ活動が開始するにつれて、世の中は汚れる、騒がしくなる。疲れる、堕落する。自然、言い換えれば大元・大本・太初に帰れば、もっと光明であり、静寂であり、正直である。人間はやっぱり常に自然に帰らなければならん。自然の真理、それが人間に教えてくれる摂理というものを見失ってはいけない。
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