電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

般若心経 《 生死を超えた和物の境地とは――松原泰道 》

2024-07-29 | 03-自己・信念・努力
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心経は、無明から老死まで、すべてを否定するのです。これはどういうわけでしょう。ここでも、前に記したように、「無」はただの否定ではなく「超える」意味であることを思い出してください。仏教以前の古代インドの宗教や、また初期の仏教徒は、無明とか生老死とかの考えに取りつかれて、ちょうど目に見えない縄に縛られたように、こういった観念に固定されてしまっていました。その固定の縄を解くのが無という超える働きです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p243 )
7章 無明(むみょう)――人間の苦悩はどこから生じるか
(1) 縁起の法則
無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん

◆生死を超えた和物(あえもの)の境地とは

ところが心経は、無明から老死まで、すべてを否定するのです。これはどういうわけでしょう。ここでも、前に記したように、「無」はただの否定ではなく「超える」意味であることを思い出してください。仏教以前の古代インドの宗教や、また初期の仏教徒は、無明とか生老死とかの考えに取りつかれて、ちょうど目に見えない縄に縛られたように、こういった観念に固定されてしまっていました。その固定の縄を解くのが無という超える働きです。

「無明」というと、何か無明というものがあるように思い、それをなくそうと考えます。あるいは生まれるとか老いるとかいうと、どうにもならぬ運命の一環だと落ちこんでしまいますが、それを救いあげるのが、無の機能です。

無明はなくなるものではありません。無明は、迷いやさとりの根元ですから、なくなるものではないのです。なくならないものをなくそうとすると、鳥もちにせみがひっかかったように、もがけばもがくほど動けなくなります。また、すべての根源の無明を仮になくせたら、人間は、本(もと)も子もなくなってしまいます。だから、「無明もなく」は、「無明に執(とら)われる心をなくす」ことで、言い換えると、無明を超えることになります。

超えるとは、繰り返し述べてきたとおり、無明とさとりを相対的に考えて、無明を悪、さとりを善と決めつけ、悪を嫌い善を好む相対的な考え方を、昇華することです。

無明もなくの「なく」が、このようにわかると、後の「老も死もなく、また老と死の尽くることもなし」も、自然にわかってくるでしょう。老いと若さを比べたり、死と生とを比較すると、目の前が真っ暗になってしまうものです。いま自分がしている生活や、いま自分が置かれている状態と、他のそれとの優劣を比べあわせるなら、苦悩はいつまでもなくならないのです。

もしもいま、あなたが病床にあるなら、(健康だったらなあ!)と、幻の健康と比べっこせずに、病気と健康とを和物(あえもの)に和えてごらんなさい。健康なときには味わえなくて、病気になってはじめてわかる人生の意味・味わいを、わからせてもらえるのです。

先に、私が復員したとき肺を結核菌に冒されていたことを記しました。栄養失調で身体も衰弱していたので、トイレの往き来は、両手を壁についての伝え歩きです。終戦直後なので食糧も医薬品も不自由の絶頂で、病気回復などは望むべくもありません。といって「死にたい」とも思いません。もちろん生きたいのですが、生き死には私の力ではどうにもならないのだからと思い、床の中で心経と、心経よりさらに短い『延命十句観音経(えんめいじっくかんのんぎょう)』を黙読しました。

私は、そのとき「生き死にを超えるとは、大いなるもの(私の場合は仏の心)にお任かせすること」だなと、合点しました。表現は違いますが「超える」も「任かせる」も、ともに小さな自分に執われる執着から脱皮することなのだなと、腹の底からうなずけました。それが私の調理した生き死にの和物の味です。
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