電脳筆写『 心超臨界 』

明日死ぬものとして生きろ
永遠に生きるものとして学べ
( マハトマ・ガンジー )

だから私は亡くなったサヤカの分まで人生を生きようと思っています――香葉村真由美さん

2024-08-09 | 06-愛・家族・幸福
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私はどんな子にも素晴らしい可能性があることを知っています。教師に大切なのは、可能性をどこまで信じ切れるかです。信じきっていれば子供たちは絶対に裏切ることはないのです。それはサヤカが命を懸けて教えてくれたことでした。だから私は亡くなったサヤカの分まで人生を生きようと思っています。


◆「子供たちの『命』が教えてくれたこと」香葉村真由美・福岡市小学校教諭
『致知』2011年5月号、致知随想、p89 )

私が小学校教師になって初めて受け持ったサヤカ。彼女はクラスのリーダー的存在で、卒業後も年に何度か会っていました。

ある日、23歳のサヤカは久々に私に会いに来てくれました。しかし、驚いたことにとても痩(や)せていて、手首にはリストカットの痕(あと)があるのです。聞いてみると、彼女の周りで辛い出来事が相次ぎ、それを自分の責任と思って苦しんでいる様子でした。

「なんてことしたの」

私の一言にサヤカは一瞬ハッとした表情を浮かべました。きっと痛いほど自分で理由がわかっていたのでしょう。そのサヤカに私は言葉を続けました。

「サヤカ、命は一つしかないんだよ。大切な一つなんだよ。頑張るんだよ。頑張らなきゃ」

「分かっているよ、先生。私、分かっている。頑張るよ」

そして別れ際、私はもう一度、言いました。

「サヤカ、頑張るんだよ」

数か月後、私の元に悲しい報(しら)せが届きました。サヤカが大量の薬を服用して自らの命を絶ったというのです。サヤカが最後に会った大人が私だったと聞いた時は頭をハンマーで殴られたようでした。彼女はきっと、自分を受け入れてもらいたくて私に会いに来たに違いありません。「よく頑張ってきたね」と、ただただ黙って抱きしめてほしかったはずです。にもかかわらず、私は「頑張ろう」「命は一つしかない」という教科書どおりの言葉を使っていたのです。

サヤカの死以来「自分は何を子供たちに話してきたのだろう」「一人の子供が救えなくて、多くの子供が救えるわけがない」と自分を責めて責め続けました。教師としてだけでなく人間として自信を失いかけていました。

どん底の私を救ってくれたのが『107+1~天国はつくるもの~』(てんつくマン監督)という一本の映画でした。描かれていたのは夢を追い求めて力強く生きる人たちの姿。私は途中で涙が止まらなくなりました。「もう一度夢を追いかけて生きてみたい」という思いが湧き上がってきたのです。

映画の舞台となった小豆島(しょうどしま)には、てんつくマンを中心に人々がともに学び合う場が実際にあると知った私は、休みをとって約2週間、そこで生活しました。雄大な自然と仲間の笑顔に包まれながら一緒に夢を語り合う中で心が癒され、人間の素晴らしさは肩書など目に見えるものでなく、その人の人間力だと気づかされるようになりました。

私が6年3組の担任になったのは小豆島から帰って間もなくのことです。私はそれまで誰にも話さなかったサヤカのことを初めてクラスのみんなに話し、「先生は二度と子供たちにサヤカのような思いをさせたくない」と訴えました。そして、何があっても目の前の子供たちを信じ続けよう、愛しぬこう、卒業式では32人全員をこの教室から笑顔で卒業させようと堅く誓ったのです。

この年、受け持った一人にシュウがいます。シュウは1年生から4年生まで辛いいじめに遭い、5年生になると急に攻撃的になりました。クラスメイトを叩く、殴る、暴言を浴びせかける……。その行為は次第にエスカレートしていきました。

6年生になったシュウのイライラが募り始めたのは5月、体育会の練習が始まった頃からでした。リレーで抜かれるだけで怒って砂を投げたりするのです。みんなは「シュウを何とかしてください」と訴えます。私も何度も話したり、怒ったり、褒めたり、考えられる限りのあらゆる手を尽くしましたが駄目でした。逆に蹴(け)られ、唾(つば)や砂をかけて反抗されるばかりでした。

自宅に帰り、洋服の砂を払い落としながら、それまで抑えていた涙が溢(あふ)れました。悔しくて、情けなくて大声で泣いた日のことをいまも覚えています。

その次の日、シュウは学校を休んでいました。私はみんなに「ごめんなさい」と謝りました。「先生はシュウもこの教室から卒業させてあげたかったけど、先生一人ではどうすることもできない。でも、先生は諦(あきら)めきれない。人を信じること、人を好きになることを、どうかみんなでシュウに教えてあげてほしい。そのかわり先生はみんなを全力で守るから……」

私のその声にみんなは「先生やろう。シュウがいたからこんないいクラスになったと言えるように、一緒に頑張ろうよ」と答えてくれました。

子供たちは大きく変わりました。皆がシュウの行動を受け入れてくれるようになったのです。叩かれてもジッと我慢し、叩こうとするシュウに「怒っているんだね。でも人を叩いたらいかん」と毅然(きぜん)と言い放つ子も出てきました。その姿を見て私も命を懸けてシュウにぶつかることを決意したのです。

ある時、シュウは私に、なぜ自分がこんな態度をするようになったか分かるか、と質問してきたことがあります。

「分からない。何があったの」

沈黙の後、彼は言いました。

「俺は、俺は、ただ友達が欲しかっただけなんだ!」

そう言うと爪(つめ)で床を引っ掻(か)き大声で泣き始めたのです。私はそんなシュウが愛(いと)おしくて、いつまでもジッと抱きしめていました。シュウが笑顔を見せ、みんなに心を開くようになったのは、それからです。

私はどんな子にも素晴らしい可能性があることを知っています。教師に大切なのは、可能性をどこまで信じ切れるかです。信じきっていれば子供たちは絶対に裏切ることはないのです。

それはサヤカが命を懸けて教えてくれたことでした。だから私は亡くなったサヤカの分まで人生を生きようと思っています。
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