電脳筆写『 心超臨界 』

良い話し手になるゆいつの法則がある
それは聞くことを身につけること
( クリストファー・モーレー )

般若心経 《 「通身これ手眼」――松原泰道 》

2024-10-08 | 03-自己・信念・努力
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禅の考案のねらいは、宙に浮いた観念論や観念遊戯の救いにあります。徧身と通身との違いを辞典で調べてごらんなさい。いずれも〈全身・身体全体・からだじゅう〉で同じです。「雲巌大悲手眼」の公案は、理論や観念の遊びの中には真理がないことをさとらせるのです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p109 )
3章 「心のカメラ・アイ」を持て――観自在菩薩が教える妙観察智の智慧
観自在菩薩
(2) 千手(せんじゅ)観音の慈悲

◆「通身(つうしん)これ手眼(しゅげん)」

禅門では、千手観音菩薩の誓願(せいがん)が修行の大切な行程になっていて、禅書の『碧眼録』の第八十九則に「雲巌大悲手眼(うんがんだいひしゅげん)」という公案(禅の命題)があります。「大悲手眼」は、「大慈悲の観音さまの千手千眼」という意味です。

9世紀中頃の中国唐代に、雲巌(うんがん)と道吾(どうご)というすぐれた禅の高僧がいました。いずれも唐代に一家をなした薬山(やくさん)和尚の門下で、仲のよい兄弟弟子です。ある日、この二人は千手千眼の観音菩薩をテーマにして禅の思想を語り合うのです。まず弟(おとうと)弟子の雲巌が、兄(あに)弟子の道吾に、

「千手観音さまは、なぜあんなにたくさんの手や眼をお持ちになるのでしょう?」

と問います。すると道吾は、彼の問に正面から答えずに、

「そうだな、夜中に枕を外(はず)して寝ていることに気づいて枕を探すことがあるな、暗がりでも手さぐりで枕を見つけることができるようなものさ」

と、手が眼のはたらきをするのをたとえて言います。それを聞いて雲巌が「わかった」と答えますが、これからが本論です。

道吾は「雲巌よ、どうわかったのだ?」と追求すると、雲巌は「徧身(へんしん)これ手眼(しゅげん)」と答えます。

それを聞いて道吾は「百点満点なら、お前の答は、さしずめ八十点だな」と、よい答だがまだ充分だとはいえない、と評します。

雲巌は「兄弟子よ、あなたのお答えは?」と切り返すと、道吾は「通身(つうしん)これ手眼(しゅげん)」と応じます。

「徧身」も「通身」もともに全身の意味で、徧と通と一字違うだけです。「ただの一字異なるだけだが、その意味の差は如何?」と、この公案は問題を提起するのです。

物ごとを相対的に判断することに慣らされた私たちは「徧身と通身と、どう異なるのか?」と開き直られると、まんまとその誘導訊問に乗せられて「徧身と通身とは、ここが違います」などと観念遊戯に落ちてしまうのです。そして問題の解決どころか、かえって問題を複雑にしてしまうのです。それが現代の知識人の泣きどころです。

禅の考案のねらいは、宙に浮いた観念論や観念遊戯の救いにあります。徧身と通身との違いを辞典で調べてごらんなさい。いずれも〈全身・身体全体・からだじゅう〉で同じです。「雲巌大悲手眼」の公案は、理論や観念の遊びの中には真理がないことをさとらせるのです。
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