電脳筆写『 心超臨界 』

リスクを取らなければ敗北することはない
だが、リスクを取らなければ勝利することもない
( リチャード・ニクソン )

日本史 古代編 《 「猫の神学」・「猿の神学」――渡部昇一 》

2024-09-22 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


平安仏教から鎌倉仏教への移行のパタンは、ヨーロッパにおける宗教改革のパタンと根本的に一致していると言えよう。ヨーロッパではその後、長く激烈な宗教戦争があり、カトリック国とプロテスタント国が出来、これがまたナショナリズムと結び付いて複雑なことになるのであるが、日本では宗教戦争といえるほどのものは、あんまりなかった。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p278 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(3) 平安仏教――オカルテズムの定着

◆「猫の神学」・「猿の神学」

これとまったく同じことはヨーロッパでも起こった。宗教改革のときにルターが掲げたモットーも、「ただ信仰によって」(solum fide)であった。そして、日本におけるのと同じ結果を生じた。信仰さえあれば、どんな悪いことをやっても救われると考えた人が相当出た点においても、善根も学問も要はないという人が多く出た点でも、そっくりである。

ルター自身、学校でギリシャ語やラテン語の古典を教えるのは、異教の文明を教えるのであるから青少年の魂に害があるから廃止すべきだという回状を各都市の参事会に送っているくらいである。このような欠点のため、イエズス会の反宗教改革が、異常な成功を収めたのであった。「信仰のみ」という宗教が、ヨーロッパの建築や美術を根こそぎにする傾向にあった点でも、日本の鎌倉仏教と似ている。われわれが知っているヨーロッパの建築様式であるロマネスク、ゴシック、バロック、ロココなど、一つ残らずカトリックの手で作られたものであり、マリアなどをテーマとする宗教画や宗教彫刻も、すべてカトリックのものであると言ってよい。

カトリックは、ミサとかベネディクション(聖体賛美式)とか相当オカルト的要素を含んでいる。これを、ルターをはじめとする宗教改革者たちは切って捨てたのである。そして宗教画を描くためのエネルギーは、風景画に向かった。偶像破壊派が最も強かったオランダが風景画で有名になったのは、こんな理由からであろう。これは、仏画の不要になった禅宗などで、墨絵の山水画が盛んになるのと似ている。

そして、この「信仰のみ」を基調とする新教神学を「猫の神学」というのである。

猫が自分の子どもを運ぶときに、その頸(くび)をくわえる。猫の子は何もすることがない。親猫にまかせればよいのである。ちょうど、阿弥陀の慈悲にまかせるように、あるいはお題目のお力にまかせるように。それはルターの「信仰のみ」の考え方に通ずるし、カルヴィンの予定説(プレデステネーション)もこれである。カルヴィンの神学の場合は、親猫が口を話せば子猫は落ちる。それは、子猫のほうではどうすることもできないという神学である。したがって当時のカトリックは、プロテスタント信者を「ルターの猫の子」とか「カルヴィンの猫の子」と言っていた。

これに反してカトリックにおいては、救いは神と人間との共同によるという。ちょうど、猿の母親が子猿を運ぶのに似ている。母猿も抱えるが、子猿もすがりつく。それによって成り立っているので、母猿が木の枝を渡るときに子猿が手を離せば子猿は落ちる。つまり、人間のほうでも自由意志で地獄に落ちうるのだし、逆に落ちたくなかったならば、母猿にすがりつかなければならぬ。つまり、この世での善業・善根が必要だということになる。これが教会建築や聖画に金をかけるもとになっているのである。これを「猿の神学」と言い、プロテスタントから見れば、カトリック教徒は「法王の猿の子」ということになる。

このように見てくると、平安仏教から鎌倉仏教への移行のパタンは、ヨーロッパにおける宗教改革のパタンと根本的に一致していると言えよう。ヨーロッパではその後、長く激烈な宗教戦争があり、カトリック国とプロテスタント国が出来、これがまたナショナリズムと結び付いて複雑なことになるのであるが、日本では宗教戦争といえるほどのものは、あんまりなかった。

戦国時代の一向一揆なども政治と宗教の対立という面が強く、宗派と宗派の争いといったものではない。何しろ日本には仏教諸派の上には、日本のカミという共通項があったりするので、今さら宗派で戦争を起こすほどのことはなかったのである。

聖徳太子のころまでに宗教の平和的共存の体質が出来ていたといってもよいであろう。天台宗と真言宗の戦争も、奈良朝の各派、いわゆる南都六宗(なんとろくしゅう)にも戦争はなかった。鎌倉新宗派も、多少の摩擦はあったが、それ以上のことはなかった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人間通 《 自負――谷沢永一 》 | トップ | 日本史 鎌倉編 《 京都に「流... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事