電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「仏教は覚悟の宗教だから、しっかり腹がきまったら、何が起ころうと心配はないはずだ。しかし、工夫はしなければならぬ。一番いい例は医者だ。いかなる名医といえども、自分の子供が重態に陥った時には脈をとる手が乱れる。それは血のつながりからくる不安が経ちきれぬからだ。しかし赤の他人の医師だったら、そういう不安はなくて、工夫だけするから、立派に脈もとれ、病気も治せるのだ。だから、事を処する場合には『心配するな、工夫だけせよ』という境地が大事になってくる」
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p177 )
第6章 原理原則の人間学
◆心配せずに工夫せよ
中央の舞台で華々しく活躍できる実力をもちながら、敢えて、郷土発展のために一生をささげた宮崎交通相談役の岩切章太郎の師は宗教家の木津無庵だった。
「その出会いは、先生が全国の師範学校の生徒に正しい仏教を身につけさせたいと行脚しておられる最中だった。最初、宮崎へお出でになった時には、お目にかかれなかったが、その時、師範学校で配布された『仏教の精髄』という小冊子をみて、私は深い感銘を受けた。以来、2回目以降は、ずうっと先生がおいでになるとついてまわった」という。
たまたま、そんな最中に日向中央銀行がつぶれかけて出馬を懇請された。ところが、年が若い上に銀行経営の経験などは一度もない。おまけに宮崎農工銀行の監査役をやっていた関係で同業の日向中央銀行の内容は知悉していた。それは、最悪の事態に陥る可能性のほうが強い状態だった。しかし「一応、考えさせてもらいたい」と一日の猶予をもらって、一晩、まんじりともせずに考えた。
〈行き詰まったものを引き受けるのが、自分の生き方の基本だから、たとえ、日向中央銀行がどんなに苦しい事態であろうと、逃げるという手はない。仕方ない、引き受けよう〉と決意した。だが、同時に自分自身にいいきかせた。
〈何といっても、再建というのは難しい問題だから、きっと、いやなことや苦しいことがつぎつぎと起こってくるに違いない。もし、自分が頼まれて引き受けたのだと考えていると、必ず、心中に不平不満が起こってくるだろう。不平不満が起こったら、自分自身も不愉快だし、仕事もうまくいかぬことになる。そうなってしまっては、再建はうまくはいかぬだろう。ならば、今、ここで自分の考えを転換しなければならない。俺は、日向中央銀行へ頼まれて入るのではない。自ら進んで、自ら求めて入るのだ。と〉
そこで、まっさきに師の木津無庵を訪ね、一部始終を報告すると、師は静かな口調でさとした。
「仏教は覚悟の宗教だから、しっかり腹がきまったら、何が起ころうと心配はないはずだ。しかし、工夫はしなければならぬ。一番いい例は医者だ。いかなる名医といえども、自分の子供が重態に陥った時には脈をとる手が乱れる。それは血のつながりからくる不安が経ちきれぬからだ。しかし赤の他人の医師だったら、そういう不安はなくて、工夫だけするから、立派に脈もとれ、病気も治せるのだ。だから、事を処する場合には『心配するな、工夫だけせよ』という境地が大事になってくる」
この一言は、難関にぶつかる度に岩切の救いとなった。
岩切は、ありていにいえば、背任罪で監獄につながれるところまで腹を据えていた。それが師の言葉によって、一層、励まされ、何が起ろうと、心配ということは一切しなかった。そのかわり、懸命に工夫に工夫を重ねて見事に日向中央銀行を再建した。
仕事を単に金儲けの手段ぐらいにしか考えていない人間には、こんな火中の栗を拾う冒険はやれるわけがない。また、そんな人間がのり込んだところで再建できるわけのものではない。
岩切にとっては「仕事をするということは『生きる』ことと同義語なんだ。悔いなく生きた、という満足感をもって人生を終わるためには、悔いのない仕事をしてゆくしか道はない」ということである。
そういう「人生の原則」が基底にあればこそ「経営の工夫」がうまれてくるのだが、その辺のところをドラッカーはずばりといいきっている。
「事業とは何か、と問われると、たいていの事業家は『営利を目的とする組織』と答えるし、経営学者たちも、ほぼこれと同じような意見をもっているようである。しかし、この答えは大きな間違いであるばかりでなく、まったく見当外れな答えである。利潤というものは事業の妥当性を検証する一つの基準を提供するだけのものである」
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「仏教は覚悟の宗教だから、しっかり腹がきまったら、何が起ころうと心配はないはずだ。しかし、工夫はしなければならぬ。一番いい例は医者だ。いかなる名医といえども、自分の子供が重態に陥った時には脈をとる手が乱れる。それは血のつながりからくる不安が経ちきれぬからだ。しかし赤の他人の医師だったら、そういう不安はなくて、工夫だけするから、立派に脈もとれ、病気も治せるのだ。だから、事を処する場合には『心配するな、工夫だけせよ』という境地が大事になってくる」
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p177 )
第6章 原理原則の人間学
◆心配せずに工夫せよ
中央の舞台で華々しく活躍できる実力をもちながら、敢えて、郷土発展のために一生をささげた宮崎交通相談役の岩切章太郎の師は宗教家の木津無庵だった。
「その出会いは、先生が全国の師範学校の生徒に正しい仏教を身につけさせたいと行脚しておられる最中だった。最初、宮崎へお出でになった時には、お目にかかれなかったが、その時、師範学校で配布された『仏教の精髄』という小冊子をみて、私は深い感銘を受けた。以来、2回目以降は、ずうっと先生がおいでになるとついてまわった」という。
たまたま、そんな最中に日向中央銀行がつぶれかけて出馬を懇請された。ところが、年が若い上に銀行経営の経験などは一度もない。おまけに宮崎農工銀行の監査役をやっていた関係で同業の日向中央銀行の内容は知悉していた。それは、最悪の事態に陥る可能性のほうが強い状態だった。しかし「一応、考えさせてもらいたい」と一日の猶予をもらって、一晩、まんじりともせずに考えた。
〈行き詰まったものを引き受けるのが、自分の生き方の基本だから、たとえ、日向中央銀行がどんなに苦しい事態であろうと、逃げるという手はない。仕方ない、引き受けよう〉と決意した。だが、同時に自分自身にいいきかせた。
〈何といっても、再建というのは難しい問題だから、きっと、いやなことや苦しいことがつぎつぎと起こってくるに違いない。もし、自分が頼まれて引き受けたのだと考えていると、必ず、心中に不平不満が起こってくるだろう。不平不満が起こったら、自分自身も不愉快だし、仕事もうまくいかぬことになる。そうなってしまっては、再建はうまくはいかぬだろう。ならば、今、ここで自分の考えを転換しなければならない。俺は、日向中央銀行へ頼まれて入るのではない。自ら進んで、自ら求めて入るのだ。と〉
そこで、まっさきに師の木津無庵を訪ね、一部始終を報告すると、師は静かな口調でさとした。
「仏教は覚悟の宗教だから、しっかり腹がきまったら、何が起ころうと心配はないはずだ。しかし、工夫はしなければならぬ。一番いい例は医者だ。いかなる名医といえども、自分の子供が重態に陥った時には脈をとる手が乱れる。それは血のつながりからくる不安が経ちきれぬからだ。しかし赤の他人の医師だったら、そういう不安はなくて、工夫だけするから、立派に脈もとれ、病気も治せるのだ。だから、事を処する場合には『心配するな、工夫だけせよ』という境地が大事になってくる」
この一言は、難関にぶつかる度に岩切の救いとなった。
岩切は、ありていにいえば、背任罪で監獄につながれるところまで腹を据えていた。それが師の言葉によって、一層、励まされ、何が起ろうと、心配ということは一切しなかった。そのかわり、懸命に工夫に工夫を重ねて見事に日向中央銀行を再建した。
仕事を単に金儲けの手段ぐらいにしか考えていない人間には、こんな火中の栗を拾う冒険はやれるわけがない。また、そんな人間がのり込んだところで再建できるわけのものではない。
岩切にとっては「仕事をするということは『生きる』ことと同義語なんだ。悔いなく生きた、という満足感をもって人生を終わるためには、悔いのない仕事をしてゆくしか道はない」ということである。
そういう「人生の原則」が基底にあればこそ「経営の工夫」がうまれてくるのだが、その辺のところをドラッカーはずばりといいきっている。
「事業とは何か、と問われると、たいていの事業家は『営利を目的とする組織』と答えるし、経営学者たちも、ほぼこれと同じような意見をもっているようである。しかし、この答えは大きな間違いであるばかりでなく、まったく見当外れな答えである。利潤というものは事業の妥当性を検証する一つの基準を提供するだけのものである」