電脳筆写『 心超臨界 』

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( マーク・トウェイン )

生きるための杖ことば 《 禅河無一滴――松原泰道 》

2024-10-11 | 03-自己・信念・努力
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目に見える存在は、その成立の点からいえば、種々の要素から構成されているので、川なら川という独立の存在はない。これを本来は空であるとも、無一物ともいう。この空、無一物の禅のこころを表象したのが枯山水の庭である、といえよう。人間の奥底に埋みこめられている表現の出来ない本来のこころが、山水に象徴されているとみる禅の発想を、ことばにしたのが「禅河無一滴」といえよう。


◆禅河無一滴(ぜんがいってきなし)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p202 )

「川は海に向かって流れます。川が私たちをつれていってくれます。川といっしょに溶けるだけでいいのです。何よりも、よどまないこと、前進する生命……前進です」とロマン・ロランは言う。

川には水があってこそ川の機用(はたらき)を果せるはずなのに、「禅河一滴無し」といい、この語はさらに「是為禅河深(是(これ)を禅河(ぜんが)の深さと為(な)す)」とつづく。禅という名の川には一滴の水もない。水のないのを禅の川の深さとする――という。

枯山水(かれさ(せ)んすい)・涸山水(こせんすい)といわれる池水も草木もない庭園がある。中国の宋(そう)や明(みん)の時代の山水画の影響で生まれた築庭方式で、わが国には室町時代に輸入され、京都の龍安寺(りょうあんじ)の「虎の子渡し」や、大仙院(たいせんいん)の庭などが有名である。石組みや、砂や小石などで「水」を表す。文字どおり「無一滴」の川である。

「禅とは、こころの名である」と、14世紀の中国の中峰明本(ちゅうほうみょうほん)和尚は禅を定義する。したがって禅河は地上の川ではなく、わがこころの流れを指していることがわかる。しかもこのこころは、いわゆる感情のままに流れ、変化の多い感性ではなく、感性の底に秘められている根元的な本来のこころ(ほとけのいのち)である。

一滴の水も無いとは、本来のこころは空であり、無一物である事実を示す。空であり、無一物であるから、このこころの流れをさえぎるものは何一つない。自由に活動できる。その活動は平面的な長さや幅ではなく、深さである。

目に見える存在は、その成立の点からいえば、種々の要素から構成されているので、川なら川という独立の存在はない。これを本来は空であるとも、無一物ともいう。この空、無一物の禅のこころを表象したのが枯山水の庭である、といえよう。人間の奥底に埋みこめられている表現の出来ない本来のこころが、山水に象徴されているとみる禅の発想を、ことばにしたのが「禅河無一滴」といえよう。
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