電脳筆写『 心超臨界 』

明日への最大の準備はきょう最善を尽くすこと
( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

◆なぜ、アメリカとシナの「国益」が一致したか

2024-11-18 | 05-真相・背景・経緯
§2-2 戦争を仕掛けるのはいつもアメリカ
◆なぜ、アメリカとシナの「国益」が一致したか


清朝滅亡(明治45年=1912年2月12日)の前、その政府の外交責任者であった袁世凱は、日露戦争後の日本を抑えるためにはアメリカと手を組むより仕方がないと考え、アメリカとの軍事同盟を画策して、アメリカに海軍基地を提供しようとしたことがあった。この袁世凱が清朝滅亡後の共和国政府の臨時大統領、のちに正式の大統領になったのだから、その外交の基本方針は容易に想像がつく。「米国と組んで日本を抑える」というのが、このころから昭和20年の日本敗戦に至るまでの33年間、シナ大陸に成立したすべての政権の基本方針であると言ってよい。


◇なぜ、アメリカとシナの「国益」が一致したか

『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p269 )

アメリカも――そして、イギリスも――満州の利権を思うように獲得することはできなかった(当然である)。しかし、清国に対してアメリカもイギリスも、その利権拡大の要求をやめず、錦州(きんしゅう)(遼寧(りょうねい)省)と愛琿(あいぐん)(黒竜江中流)の間に愛琿鉄道を敷設する計画を立てた。これは南満州から北満州の黒竜江に至る大動脈となるであろう。これを米・英・清の三ヵ国が中心でやろうというのである。日本は結局、この計画に参加することになったが、日露戦争後も満州に進出したがるイギリスやアメリカ、特にアメリカの意欲には目を瞠(みは)るものがある。

そのアメリカにとって、いちばん邪魔になるのは日本である。

しかもこのころ、アメリカは激しい日本移民排斥をやっていた。前に述べたように、自分の国内では下等人種として排斥できる日本人が、シナ大陸の利権に関しては、ロシアやイギリスの白人植民地大国と平等な交渉相手となることが、何とも腹立たしかったに違いない。アメリカは当時、人種差別に基礎をおいて国が成り立っていた。イギリスやロシアやドイツやフランスがシナ大陸に利権を得ているのに対しては腹も立たず、むしろ当然と思われるのに、日本がシナ大陸に利権を得るのは怪(け)しからん、という強い感情が生じた。

その感情は、どのようにして現われたか。それは、ハリマンのように日本とパイを分けようという提案もあったし、満州の鉄道の中立化という、虫のよい申し出もあった。そのいずれも、うまくいかないと見るや、シナ人の排日運動を煽り立てる、という現われ方をした。これはアメリカの正義感にも叶い、シナ人の生活感情にも合うことであった。

それにアメリカは、日本の持たない情宣(じょうせん)機関をシナ大陸のいたるところに持っていた。それはキリスト教の宣教師(特にプロテスタント)である。神の道を説く人たちだから、聖人のような人たちも少なくなかったと思われるが、安手の正義感から、単なる煽動者とたいして変わらない連中も多かった。

それでも、排日運動がたいして盛りあがらなかったのは、「排日」よりも「恐日」があったからだ、と当時の国際情況の観察者であった三宅雪嶺(せつれい)などは指摘している。日露戦争後の日本の武力は、アジアと太平洋でならぶものがなかった。

当時は、アメリカも太平洋にこれという艦隊もなく、イギリスの海上兵力も知れたものであった。本格的な艦隊はスエズ運河の東、パナマ地峡(運河開通は1914年)の西の間では、日本にしか存在していなかった。陸軍も、ロシアに勝った日本軍の前に、手の出せるものはなかった。

清国が日露戦争の直後に、1300年の歴史を持つ科挙の制度を廃止し、日本に多くの留学生を送って、それに替えるようになったのも、その一つの現われである。

日露戦争の後は、シナ大陸には「恐日」が支配的であり、部分的には「敬日」もあったのである。そういう時は余計な摩擦がないから、日清関係には、これという事件がない。

恐日気分から排日気分に変わるのは、ウッドロー・ウイルソンがアメリカ大統領に就任した大正2年(1913)ごろからである。

その前年までは、列強は、何だかんだと言いながら足並みを揃えようというところが見られた。たとえば、明治45年(1912)の1月には、京奉(けいほう)鉄道(北京・奉天間)の警備に英・米・独・仏・日の五ヵ国が協同して出兵した。また、同年6月には英・米・仏・独・露・日の六ヵ国の銀行が協調していわゆる六ヵ国借款団を作り、その年の2月に滅亡した清国の外債を全部引き受けようという話し合いをし、合意に達している。

ところが、翌年ウイルソン大統領が就任すると、その半月後には六ヵ国借款団から脱退している。そして、このころから日本人がシナ大陸においてしばしば一方的に襲撃されるようになる。

これは清朝が滅んで、各地に軍閥政権ができて治安が悪くなったこともあるが、アメリカがその背後についているという安心感が、恐日感を減じ、その減じた分が排日運動に変わったと言えよう。

清朝滅亡(明治45年=1912年2月12日)の前、その政府の外交責任者であった袁世凱は、日露戦争後の日本を抑えるためにはアメリカと手を組むより仕方がないと考え、アメリカとの軍事同盟を画策して、アメリカに海軍基地を提供しようとしたことがあった。この袁世凱が清朝滅亡後の共和国政府の臨時大統領、のちに正式の大統領になったのだから、その外交の基本方針は容易に想像がつく。「米国と組んで日本を抑える」というのが、このころから昭和20年の日本敗戦に至るまでの33年間、シナ大陸に成立したすべての政権の基本方針であると言ってよい。

シナに親愛の感情を示し、日本に憎悪感を持つという局面にアメリカは突入した。これを親支反日段階(サイノファイル・ジャパオフォーブ・フェイズ)(Sinophile-Japanophobe phase)と言う。
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