電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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曾国藩が四耐ということを挙げている。四つの忍耐、一つは冷ややかなことに耐える。人生の冷たいことに耐える。第二は苦しいことに耐える。第三は煩わしいことに耐える。第四は閑に耐える。この閑・退屈に耐えるということが難しい。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p139 )
[2] 人生心得
6 日用心法
◆精神と生活(2/2)
第十、仮に自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、自分の生活が退屈であるとすれば、自分の満足を何によって得るかという問題。
我々が退屈するということは案外いけないことである。我々が働くことによって消費されるエネルギーよりも、退屈することによって消費されるエネルギーの方が大きい。
退屈するということは非常に疲れることであり、毒なことであるということが、最近医学的にもはっきり実験証明されている。だからその意味においても、我々は退屈をしてはいけない。あくまで敏・敏求・敏行でなければならぬ。
曾国藩が四耐ということを挙げている。四つの忍耐、一つは冷ややかなことに耐える。人生の冷たいことに耐える。第二は苦しいことに耐える。第三は煩わしいことに耐える。第四は閑に耐える。
この閑・退屈に耐えるということが難しい。“小人閑居して不善をなす”というのは名言であって、まことに退屈せぬように、もし仕事がどうしても自分に向かぬという時には、どういう仕事なら打ち込めるかを調べる。漫然とテレビを見たり、小説に読み耽ってせっかくの時を無駄にするなど、すべてもったいないことである。
そこでその次、第十一、とにかく自分が毎日絶えず追及する問題をもち続けるということ、そういう思案や反省と同時に、さしあたり毎日、今日はこれをせねばならぬ。それからあれをやるのだという、絶えず追求する明確な問題を持っておるかどうか。もっと直接にいえば、とりあえず今日何をせねばならぬかという仕事を持っておるかどうか。今日はもちろん、明日是非これをやらなけらばならぬという仕事を持っておるかどうかということである。
第十二、自分は人に対して親切であるか、誠実であるか、ちゃらんぽらんではないか――を反省すること。事業人として社会人として、一番その信・不信の分かれるところは、人に対して誠実であるか、ちゃらんぽらんかということである。
あいつはちゃらんぽらんだということになると、能力があっても駄目である。多少愚鈍であっても、誠実であるということは必ず社会的信用を得る。利巧な才子よりも、鈍くても真面目な人間が尊い。
第十三、自分は人格の向上に資するような教養に努めておるかどうか。人間を作る意味の教養に努力しておるかどうか。
我々はいろいろな本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、案外人間を作るという意味での学問修養は、なかなかやれないもので、とにかく義務的な仕事にのみ追われて、気はついていても人格の向上に役立つような修養には努力しない。少し忙しくなってくると、そういうことを心掛けることはできにくいもので、地位身分のできる頃に、悲しいかな自分自身は貧弱になる。下に在る間は良かったが、上になるほど駄目になる。不評になるのは、悲劇であり、恥辱である。
第十四、特に何か知識技術を修めておるかどうか。つまり何らかのエキスパートになる努力をしておるかどうか。
昔から“芸は身を助く”というが、我々は人間としてよくできておると同時に、何か一芸一能を持たなければならない。つまりエキスパートであるということは、われわれが社会人としての生命を維持するにも非常に大事な条件である。あの人でなければならぬという、何か一つを持っておることは、非常な強みである。少なくともつぶしのきく人間になる。それだけの素養を持っておる、いや持っておるのみではなくて、いやが上にもそれを磨くことである。
最後の第十五、これは非常に深い問題であるが、自分は何か信仰・信念・哲学を持っておるかどうか。これは一番人間としての根本問題である。
その人から地位だの、名誉だの、身分だの、報酬だのというものを引いてしまう、あるいは親子だの、妻子だのというものを引いてしまうと、何が残るか。何も残らぬということではいけない。一切を剥奪されても、奪うべからざる永遠なもの、不滅なものが何かあるかという時、答えられる人間にならなければいけない。それはつきつめたところ、何らかの信仰・信念・哲学というものを持っておらねば能わぬことである。
現代社会は社会学者が多く説いている通り、恐るべき「病める社会」である。その点で昔よりも人々は危機にあるといって過言ではない。この生活法より自分の日常の仕事、自分の内面生活、社会関係を健全にしてゆけば、自分というものを容易に病ませたり、若朽させないで、どんどん進歩してゆくことができるであろう。
こういう志を持たずに、うかうか活動しておると、容易に現代社会の複雑な、非常に恐ろしい病的魔力のために侵されて、案外速く自分を駄目にしてしまう。これは冷厳な事実である。志有る人物は宜しく冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わずという心掛けを以て努力せねばならない。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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曾国藩が四耐ということを挙げている。四つの忍耐、一つは冷ややかなことに耐える。人生の冷たいことに耐える。第二は苦しいことに耐える。第三は煩わしいことに耐える。第四は閑に耐える。この閑・退屈に耐えるということが難しい。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p139 )
[2] 人生心得
6 日用心法
◆精神と生活(2/2)
第十、仮に自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、自分の生活が退屈であるとすれば、自分の満足を何によって得るかという問題。
我々が退屈するということは案外いけないことである。我々が働くことによって消費されるエネルギーよりも、退屈することによって消費されるエネルギーの方が大きい。
退屈するということは非常に疲れることであり、毒なことであるということが、最近医学的にもはっきり実験証明されている。だからその意味においても、我々は退屈をしてはいけない。あくまで敏・敏求・敏行でなければならぬ。
曾国藩が四耐ということを挙げている。四つの忍耐、一つは冷ややかなことに耐える。人生の冷たいことに耐える。第二は苦しいことに耐える。第三は煩わしいことに耐える。第四は閑に耐える。
この閑・退屈に耐えるということが難しい。“小人閑居して不善をなす”というのは名言であって、まことに退屈せぬように、もし仕事がどうしても自分に向かぬという時には、どういう仕事なら打ち込めるかを調べる。漫然とテレビを見たり、小説に読み耽ってせっかくの時を無駄にするなど、すべてもったいないことである。
そこでその次、第十一、とにかく自分が毎日絶えず追及する問題をもち続けるということ、そういう思案や反省と同時に、さしあたり毎日、今日はこれをせねばならぬ。それからあれをやるのだという、絶えず追求する明確な問題を持っておるかどうか。もっと直接にいえば、とりあえず今日何をせねばならぬかという仕事を持っておるかどうか。今日はもちろん、明日是非これをやらなけらばならぬという仕事を持っておるかどうかということである。
第十二、自分は人に対して親切であるか、誠実であるか、ちゃらんぽらんではないか――を反省すること。事業人として社会人として、一番その信・不信の分かれるところは、人に対して誠実であるか、ちゃらんぽらんかということである。
あいつはちゃらんぽらんだということになると、能力があっても駄目である。多少愚鈍であっても、誠実であるということは必ず社会的信用を得る。利巧な才子よりも、鈍くても真面目な人間が尊い。
第十三、自分は人格の向上に資するような教養に努めておるかどうか。人間を作る意味の教養に努力しておるかどうか。
我々はいろいろな本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、案外人間を作るという意味での学問修養は、なかなかやれないもので、とにかく義務的な仕事にのみ追われて、気はついていても人格の向上に役立つような修養には努力しない。少し忙しくなってくると、そういうことを心掛けることはできにくいもので、地位身分のできる頃に、悲しいかな自分自身は貧弱になる。下に在る間は良かったが、上になるほど駄目になる。不評になるのは、悲劇であり、恥辱である。
第十四、特に何か知識技術を修めておるかどうか。つまり何らかのエキスパートになる努力をしておるかどうか。
昔から“芸は身を助く”というが、我々は人間としてよくできておると同時に、何か一芸一能を持たなければならない。つまりエキスパートであるということは、われわれが社会人としての生命を維持するにも非常に大事な条件である。あの人でなければならぬという、何か一つを持っておることは、非常な強みである。少なくともつぶしのきく人間になる。それだけの素養を持っておる、いや持っておるのみではなくて、いやが上にもそれを磨くことである。
最後の第十五、これは非常に深い問題であるが、自分は何か信仰・信念・哲学を持っておるかどうか。これは一番人間としての根本問題である。
その人から地位だの、名誉だの、身分だの、報酬だのというものを引いてしまう、あるいは親子だの、妻子だのというものを引いてしまうと、何が残るか。何も残らぬということではいけない。一切を剥奪されても、奪うべからざる永遠なもの、不滅なものが何かあるかという時、答えられる人間にならなければいけない。それはつきつめたところ、何らかの信仰・信念・哲学というものを持っておらねば能わぬことである。
現代社会は社会学者が多く説いている通り、恐るべき「病める社会」である。その点で昔よりも人々は危機にあるといって過言ではない。この生活法より自分の日常の仕事、自分の内面生活、社会関係を健全にしてゆけば、自分というものを容易に病ませたり、若朽させないで、どんどん進歩してゆくことができるであろう。
こういう志を持たずに、うかうか活動しておると、容易に現代社会の複雑な、非常に恐ろしい病的魔力のために侵されて、案外速く自分を駄目にしてしまう。これは冷厳な事実である。志有る人物は宜しく冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わずという心掛けを以て努力せねばならない。