電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
よく明治時代の詩人に流行(はや)った話で、山陽が絶句の作法として、「京の三条の糸屋の娘」、何のことかと思うと、これを承けて「妹十八、姉二十」と年を言い、そこで転句がまただらだらしたんではあくびが出る。そこで一転しておやっというものがでなければいかん。曰く、「諸国大名は弓矢で殺す」。今まで「京の三条の糸屋の娘、妹十八、姉二十」ときて、それとおよそ縁もゆかりもないような、諸国大名は弓矢で殺す。一体何の事だろうと思うと、「糸屋の娘は目で殺す」、結局なるほどと肯(うなず)かせるような、人生もこうだという。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p147 )
[3] 座右銘選話
1 行動の原理
◆四不殺の銘
崔子玉という人は後漢の大学者で、名は瑗(えん)(西紀77―142)。学問・人物共に優れ、為政者としても立派な治績のあった偉い人です。この崔子玉の座右の銘は、日本でも平安朝以来特に読書人に愛好された『文選』の中に録されておるが、こういう歴史的な由緒のある作品からであるから、試みにこれを冒頭に掲げておいた。この人の作で世間に割合よく知られておるものは、四不殺の銘であろう。
「嗜慾を以て身を殺す無かれ」。人間は皆、嗜好で身を殺す。
「貨財を以て身を殺す無かれ」。これは古今変わらぬ常人の愚蒙だ。その次は、
「政事を以て民を殺す無かれ」。これも更に痛切な問題。現今日本の政治家たちも、こういうことを静かに反省する余裕や良識を欲しい。ソ連や中共の支配者等は、政事を以てどれほど民を殺したか分からぬ。これはもう計り知れぬものがある。それだけでも人類に対する大罪悪である。文化大革命などというが、これは「蛇の道は蛇」のソ連が評する通り文化大破壊だ。しかしソ連や中共の政府ばかりではない。いずれの権力主義国においてもありがちのことである。しかしそれよりももっと目立たないで、もっと恐ろしいものがある。
「学術を以て天下を殺すこと無かれ」である。学術が人を殺す。これはちょっと常人の考え及ばぬ深刻で恐るべきもの。これは政治のように誰にも分かる性質のものでない。学術というといかにも尊いもののように思う。しかし、古来学者とか思想家とかいう者が、いかに人間を誤り、人間を殺したか。昨今ますます甚だしいではないか。最後の一言実によく効いている。絶句の起承転結の法にもかなっている。
詩、特に絶句は四句から成り立っておる。その第一句が起句、その次が承句、それから転句、最後を結句という。詩人によっては起句に凝る者がある。物事は出だしで多く決まるから、無理のないことだが、これに反して素直に、あまり目立たずに、すらりと出るというゆき方もある。
詩人でいうと、李白という人は、出だしによく度肝を抜くような句を作った人だ。ところが、出だしをあまりすばらしくやると、後が続かぬ、後が振わない。李白の大詩人を以てして、終わりの振わぬ詩が少なくない。
人間・人生もそうで、少年時代に神童などと言われて、終わりもそれにふさわしく大人物になったなどという者はめったにない。十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人という諺がある。そういう風にとかくなりがちだ。それより、子供の時は平凡で、だんだん年を取るほど偉くなったというのは却って本当です。とかく若い秀才というものは頼りにならないものだ。嗜慾を以て身を殺す無かれなど、出だしは平凡、素直だ。
よく明治時代の詩人に流行(はや)った話で、山陽が絶句の作法として、「京の三条の糸屋の娘」、何のことかと思うと、これを承けて「妹十八、姉二十」と年を言い、そこで転句がまただらだらしたんではあくびが出る。そこで一転しておやっというものがでなければいかん。曰く、「諸国大名は弓矢で殺す」。今まで「京の三条の糸屋の娘、妹十八、姉二十」ときて、それとおよそ縁もゆかりもないような、諸国大名は弓矢で殺す。一体何の事だろうと思うと、「糸屋の娘は目で殺す」、結局なるほどと肯(うなず)かせるような、人生もこうだという。
孔子も四十にして惑わずというから、二十、三十ぐらいまでは平凡でもよい。しかし四十になれば、うーむと唸らされるところがなければならぬ。気合のかかるところがなけれならぬ。そして好々という終わりを現ずる。それが人生の起承転結だ。結句に入る頃にぼけてしまったり、くたびれてしまったり、何やらわけの分からないような、うやむやに終わってしまったりしては情けない。そのためにも転というのが特に難しい。人間の四十、五十というところが一番難しい。人生の転機だ。この時にくだらぬ道楽を覚えたとか、柄にもない一獲千金を考えて、とんだ罪に引っかかったり、まあよくあることです。こういうのが生きた真理、生きた哲学である。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
よく明治時代の詩人に流行(はや)った話で、山陽が絶句の作法として、「京の三条の糸屋の娘」、何のことかと思うと、これを承けて「妹十八、姉二十」と年を言い、そこで転句がまただらだらしたんではあくびが出る。そこで一転しておやっというものがでなければいかん。曰く、「諸国大名は弓矢で殺す」。今まで「京の三条の糸屋の娘、妹十八、姉二十」ときて、それとおよそ縁もゆかりもないような、諸国大名は弓矢で殺す。一体何の事だろうと思うと、「糸屋の娘は目で殺す」、結局なるほどと肯(うなず)かせるような、人生もこうだという。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p147 )
[3] 座右銘選話
1 行動の原理
◆四不殺の銘
崔子玉という人は後漢の大学者で、名は瑗(えん)(西紀77―142)。学問・人物共に優れ、為政者としても立派な治績のあった偉い人です。この崔子玉の座右の銘は、日本でも平安朝以来特に読書人に愛好された『文選』の中に録されておるが、こういう歴史的な由緒のある作品からであるから、試みにこれを冒頭に掲げておいた。この人の作で世間に割合よく知られておるものは、四不殺の銘であろう。
「嗜慾を以て身を殺す無かれ」。人間は皆、嗜好で身を殺す。
「貨財を以て身を殺す無かれ」。これは古今変わらぬ常人の愚蒙だ。その次は、
「政事を以て民を殺す無かれ」。これも更に痛切な問題。現今日本の政治家たちも、こういうことを静かに反省する余裕や良識を欲しい。ソ連や中共の支配者等は、政事を以てどれほど民を殺したか分からぬ。これはもう計り知れぬものがある。それだけでも人類に対する大罪悪である。文化大革命などというが、これは「蛇の道は蛇」のソ連が評する通り文化大破壊だ。しかしソ連や中共の政府ばかりではない。いずれの権力主義国においてもありがちのことである。しかしそれよりももっと目立たないで、もっと恐ろしいものがある。
「学術を以て天下を殺すこと無かれ」である。学術が人を殺す。これはちょっと常人の考え及ばぬ深刻で恐るべきもの。これは政治のように誰にも分かる性質のものでない。学術というといかにも尊いもののように思う。しかし、古来学者とか思想家とかいう者が、いかに人間を誤り、人間を殺したか。昨今ますます甚だしいではないか。最後の一言実によく効いている。絶句の起承転結の法にもかなっている。
詩、特に絶句は四句から成り立っておる。その第一句が起句、その次が承句、それから転句、最後を結句という。詩人によっては起句に凝る者がある。物事は出だしで多く決まるから、無理のないことだが、これに反して素直に、あまり目立たずに、すらりと出るというゆき方もある。
詩人でいうと、李白という人は、出だしによく度肝を抜くような句を作った人だ。ところが、出だしをあまりすばらしくやると、後が続かぬ、後が振わない。李白の大詩人を以てして、終わりの振わぬ詩が少なくない。
人間・人生もそうで、少年時代に神童などと言われて、終わりもそれにふさわしく大人物になったなどという者はめったにない。十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人という諺がある。そういう風にとかくなりがちだ。それより、子供の時は平凡で、だんだん年を取るほど偉くなったというのは却って本当です。とかく若い秀才というものは頼りにならないものだ。嗜慾を以て身を殺す無かれなど、出だしは平凡、素直だ。
よく明治時代の詩人に流行(はや)った話で、山陽が絶句の作法として、「京の三条の糸屋の娘」、何のことかと思うと、これを承けて「妹十八、姉二十」と年を言い、そこで転句がまただらだらしたんではあくびが出る。そこで一転しておやっというものがでなければいかん。曰く、「諸国大名は弓矢で殺す」。今まで「京の三条の糸屋の娘、妹十八、姉二十」ときて、それとおよそ縁もゆかりもないような、諸国大名は弓矢で殺す。一体何の事だろうと思うと、「糸屋の娘は目で殺す」、結局なるほどと肯(うなず)かせるような、人生もこうだという。
孔子も四十にして惑わずというから、二十、三十ぐらいまでは平凡でもよい。しかし四十になれば、うーむと唸らされるところがなければならぬ。気合のかかるところがなけれならぬ。そして好々という終わりを現ずる。それが人生の起承転結だ。結句に入る頃にぼけてしまったり、くたびれてしまったり、何やらわけの分からないような、うやむやに終わってしまったりしては情けない。そのためにも転というのが特に難しい。人間の四十、五十というところが一番難しい。人生の転機だ。この時にくだらぬ道楽を覚えたとか、柄にもない一獲千金を考えて、とんだ罪に引っかかったり、まあよくあることです。こういうのが生きた真理、生きた哲学である。